防衛研の本

 ウクライナ侵攻に関し、防衛研究所が『ウクライナ戦争の衝撃』なる書物を出版した。ただこの書物、こちらのページにpdfファイルが揃っているため、その気になればネット上で読むことができる。というわけでざっと全体に目を通してみた。本文は150ページに満たない短い本であり、それほど読むのに苦労する本ではない。一方で今回の戦争に関して基本的な点はきちんと押さえられており、これまでの流れを整理して把握するには便利だ。また今回の戦争で直接焦点になっていない地域についての知見も得られる。
 目次を見れば分かる通り、この本は防衛研の研究者がそれぞれ専門としている担当地域に焦点を当て、ロシアのウクライナ侵攻によってそれらの地域で何が生じているかをまとめたものだ。具体的には当事者のロシア以外にも米国、中国、オーストラリア、ASEANといった地域について分析が行われており、またインドや中東についてもコラム内で言及がなされている。大きく抜けている地域としては欧州があるが、日本の防衛研の研究者なので日本周辺が中心になってしまうのは仕方ない。
 まずは最大の当事者であるロシアについてだが、いきなり冒頭でロシア側のプロパガンダ否定から入っているあたりはなかなか特徴的と言えるかもしれない。今回の戦争では防衛研の研究者がマスコミなどに顔を出して解説をするケースが多々見られるようだが、その狙いの一つにロシアによる情報戦に対抗する意味があるのではないかとの指摘も存在する。そう考えると侵攻の経緯よりも先に、NATOが悪いというロシアのプロパガンダがおかしいと指摘するのは当然なのかもしれない。一方で将来的にはロシアがNATOに脅かされているという感覚が少ない環境づくりが必要だとも指摘はしている。
 ウクライナ侵攻の経緯はともかく、その背景の説明はなかなか興味深い。ソ連時代はレニングラードとウクライナが「統治エリート集団の二大拠点」だったという話は知らなかったし、そうした背景があるからこそロシア側がウクライナとの一体感に妙にこだわっているとの指摘は説得力がある。もちろんロシアの態度は、よく言われている通り弟に暴力をふるうDV兄というべきものだが、プーチンのウクライナに対するほとんどストーカー的なこだわりの中には、そういうかつての思い出があるのかもしれない。
 一方、安全保障専門家がロシアの軍事行動についてどう見ているかも書かれている。といっても内容は「合理性も効率性も失った」と実に手厳しい。チョルノービリで土壌汚染の激しい地域を掘り返した行為については「ロシア軍は自らを守るという最低限の合理性も欠いているのでどんな危険な愚行を行なうか分からない」と記し、さらには孫子の「不知彼不知己毎戰必殆」まで紹介している(そういやこちらのエントリーでもこの言葉を取り上げたっけ)ので、やはり専門家から見てもロシア軍はおかしく見えるようだ。
 今後については「消耗していくロシアと協力する価値は減少」するため、旧ソ連地域でのロシアの求心力も低下するのではないかと指摘。ロシアはもはやこれまでと同じ国際環境には生きていけないと見ている。一方でウクライナが払う犠牲を考えるなら「ロシアがこの侵略行為で利益を得てはならず」「代償を払わねばならない」とも記している。現在の国際体制の中で一定の恩恵を受けている日本にとっても、これは国益上必要だとの見方だろう。戦争犯罪の追求は「今後への警告ともなる」わけで、今の国際政治を19世紀以前に退化させたくないと思うなら、そういう選択にならざるを得ないのはその通りだと思う。
 衰えつつあるとはいえ世界一の大国である米国については、直接の派兵はしないもののそれ以外の様々な手でロシアを抑止し、ウクライナを支援してきたこれまでの経緯がまとめられている。日本にとって重要なインド太平洋地域への影響については、引き続き中国こそが米国にとって戦略的な競争相手ではあるが、ロシアのウクライナ侵攻が深刻な脅威である点も認めており、この2つをどう両立させるかこれからの課題になると見ている。逆に言うなら、ウクライナの重要性が増して米国がそちらに重点をシフトするような事態になれば、日本を含むインド太平洋地域の諸国にとって事態は「遠い国の戦争」ではなくなってしまう、という意味だろう。
 実際、日本と似た立場にあるオーストラリアについては、彼らがかなりロシアに対して厳しく反応している背景として、「専制の弧」による世界秩序リセットへの懸念が指摘されている。要するに中ロが結託して今の世界秩序を破壊しようとしている、という見方であり、オーストラリアもその影響を受けているのだそうだ。特にソロモン諸島(太平洋戦争のガダルカナル島がある)と中国の安全保障協定はオーストラリアの懸念を招いたようで、米英との連携がさらに必要になっているという。こうした視点は野党や世論も支持しており、さらには国防力の強化に向けたペースが遅すぎるとの見解もあるそうだ。日本でも防衛費GDP比2%論がかなり唐突に浮上してきたが、対岸の火事を見て慌てて消火器の数を増やしている感じだろうか。
 ウクライナ戦争を通じてロシアよりも中国を懸念しているのはASEANも同じだ。ただしASEANは日本やオーストリアとは異なり、西側と中ロの間でどうバランスを取るかに腐心している、というのがこの本の説明。戦争に対するASEAN外相声明は「微温的」な内容だが、短期間にその声明を3回も出している点では異例だそうで、ASEANが色々と心配しているのは間違いないようだ。何よりASEANの問題は国によってロシアとの距離感が違う点にあり、そのためASEAN全体としては微温的にならざるを得ない面もあるという。
 このあたり、ウクライナ侵攻後もあまり報じられることのない地域だけに興味深い。どうも全体として東南アジアでも大陸側の諸国はロシアや中国への配慮が多く、それに対し島国の方はもう少し厳しい姿勢を取るところが目立っているようだ。だが日本にとっての南西諸島、オーストラリアにとってのソロモン諸島と同じ不安をASEAN諸国が南シナ海で抱いているのは事実。この地域に対する中国の影響の大きさは間違いないが、それは必ずしも「望ましい影響」でもなさそうで、これらの諸国もウクライナ戦争を通じて中国がどう動くかに多大な関心を抱いているのは同じだろう。
 そしてその中国についての分析。ロシアが中国に知らせることなく今回の侵攻を行ったのはおそらく間違いないが、それでも中ロ連携は変わらないだろう、というのがこの本の見方である。ここに至るまでの過程でロシアとの戦略的連携を強調しまくった習近平政権にとって、いまさらその路線を変えることはできない。「中露関係の見直しは習近平政権の正統性にかかわる問題」であり、国内政治の観点からも「ロシアか米国か」という問題設定は成立しない、という。このあたり、ロシアにとっては合理性のない戦争でもプーチンにとっては他に選択肢がない、という流れと似たようなことになっている。
 だがロシアの抱え込みは中国にとっても「戦略的リスクは大きい」。今回の戦争で、当初は中国内にもプーチンと縁を切れとの見解があったが、結局のところ習近平はロシアに引きずられるように彼らを支持している。本の中にあるコラム1では米側の中国指導部に対する見方が記されているが、そこにも中ロの接近には限界があり、自国の評判に傷がつくリスクや国際経済への影響について中国が不安を感じているとの指摘がある。ロシアが本当に「大きな北朝鮮」になるのだとしたら、それを抱え込むのはメリットよりデメリットの方が大きそうだ。
 後はコラム2でインドに、同3で中東に関する言及がある。インドについてはロシアとの距離が近いことをある程度容認し、あくまで対中国という観点で緩やかなパートナーシップを維持することが当面は重要といった見方を示している。Noah Smithがいっときインドを味方に引き入れろとやたら強調していたが、この本を読む限りそう簡単な話ではなさそうだ。中東についてはロシア経済制裁との関連で石油がどうなるかの観点が中心。米の同盟国であるサウジとUAEはバイデン政権に不信感を持っており、そう簡単には石油増産に応じないと記されている。中東は中東で地域的な覇権争いもあり、ウクライナ戦争を自分たちの優位につなげるための材料に使おうと考える人がいるんだろう。
 それらに加え、最後は座談会も掲載されている。ここでも後半はロシアではなく中国が話の主題になっており、中ロ関係は盤石ではないが、一方で中ソ対立は例外的な時期だったとの意見が出ている。習近平にとってはプーチン政権が倒れ、自分たちの統治スタイルが内外で脅かされる方が望ましくない、と考えている可能性があるんだそうだ。一方、旧ソ連圏がロシア離れをした場合、次に接近できる相手として中国が選ばれるかもしれず、だとするとロシア帝国に代わって中華帝国がユーラシアのより広い範囲に影響力を及ぼすことも考えられる。
 目先はいかにウクライナでの人道危機を抑制するかが重要なのだが、この本においては中期的に日本にとっては台湾をはじめとした周辺地域での危機をいかに発生させないかを大きな課題に置いているように読める。そしてそうした危機感は、ロシア同様に権威主義的体制を敷いている中国の行動が予測しにくい点に由来しているのは間違いないだろう。こうした権威主義的な国々の暴発を防ぎつつ、一方で西側諸国内でも「不和の時代」を乗り切らねばならないのだから、なかなか厄介な時代になったもんだ。
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