1796年ドイツ(byナポレオン)その6

 承前。


VI.
 政府からの命令を受けたジュールダンは要塞群の前にマルソーと3万人の兵力を残し、5万人の兵力を構成する僅か6個師団でドイツの心臓部へと前進した。彼はザクセンの国境にあるチューリンゲン山地の端を通ることで、ドナウを彼の背後に置き去りにした。7月21日、彼の前衛はシュヴァインフルトに入り、26日にはそこに司令部を置いた。司教領の兵が占拠していたヴュルツブルクとその要塞は8月3日に降伏。3万1000人の兵を率いるヴァルテンスレーベンは、全く抵抗することなくバンベルクへ退却した。サンブル=エ=ムーズ軍は彼を追撃し、バンベルクでレードニッツ川を渡り、8月6日のフォルスハイム[フォルヒハイム]の戦闘で彼を打ち破り、それによって彼はヴィルス川の背後へ退くことを決意した。8月11日、フランス軍の司令部はラウフに定められた。バイロイトとアンベルクをつなぐ大街道上にあるローテンベルク要塞は降伏した。この要塞には43門の大砲があった。8月15日、フランス軍はスルツバッハとアンベルクへ行軍。彼らは終日、戦闘を行った。4個師団が交戦し、敵はヴィルス川沿いの戦線から撤収し、ナープ川の背後をシュヴァルツェンフェルトへ退却してなお大公の軍から遠くへ移動していった。19日、フランス軍はヴィルス川の彼方にいた。
 ベルナドットはラティスボン[レーゲンスブルク]から10リーグの距離にあり、ラティスボンとニュルムベルク間の道路上にあるノイマルク[ノイマルクト]へ分遣された。2つの軍[サンブル=エ=ムーズとラン=エ=モーゼル]はドナウ左岸を支配し、合流しつつあると考えられていた。20日、指揮官は5個師団と伴にナープ川へ前進した。敵はヴォルフェリングの高地で極めて激しい抵抗を続けたが、夜間にそこを撤収した。8月21日、サンブル=エ=ムーズ軍の布陣は以下のようになっていた。司令部はアンベルク。5個師団計4万人はナープの川岸に戦線を敷き、ヴァルテンスレーベンの軍が彼らに対峙していた。右翼では10リーグ離れた場所に7000人から成るベルナドット師団が分遣され、ラティスボン街道を監視していた。3個師団3万人と伴にマルソーはメンツとエーレンブライトシュタインを封鎖し、マイン河を守っていた。ナープは小さな川で、ラティスボンの上流1リーグでドナウ河に注いでいた。サンブル=エ=ムーズ軍の作戦連絡線はラウフ、ニュルムベルク、バンベルク及びヴュルツブルクを経由していた。2つの軍がドナウ左岸を支配しているにもかかわらずライン[ラン=エ=モーゼル]軍とは何の連絡も取れておらず、[サンブル=エ=ムーズ軍は]大公の軍とヴァルテンスレーベンの軍の間に位置していた。ボヘミアの国境までは1日の行軍距離だった。アンベルクとヴォルフェリングの戦闘はとても血腥いものだった。実際フランス軍は戦場の支配者としてとどまったが、両軍の損失はほぼ同じだった。双方が得た捕虜の数は200か300人を越えなかった。フランクフォルト[フランクフルト]を出発して以来、生じた出来事はこれだけで、これらはそれ自体では重要ではなかった。

(注:これまた本来は1段落目と2段落目が一つの段落になっている文章だが、yahoo blogによる意味不明な規制のため分けて掲載することになった。悪しからず)


 以下、次回。

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