英国のサイクル

 Secular Cyclesの中でTurchinらは英国における中世末期と近代初期の2つのサイクルを紹介している。他にも同書の中ではフランスやローマ、ロシアなどの事例が紹介されているが、特に英国の事例について様々なモデルを使って改めて調べ直している論文が、Application of Mathematical Models to English Secular Cyclesだ。ここではTurchinらのモデルについて異論なども述べているので、ちょっと確認してみた。
 まず論文内で使用するモデルがいくつか紹介されている。最初は国家興亡の方程式(Historical Dynamics)で取り上げたdemographic-fiscalモデルだ。内容についてはこちらに紹介されているものと基本的に同じ。ただし論文では土地収容力をよりシンプルなものに変更しており、統合トレンドでは耕作可能な全地域で、解体トレンドではTurchinの言う「恐怖の風景」landscape of fearのために防衛拠点の近くのみで生産活動が行われると想定されている。
 このモデルではエリートの動向については反映されていない。そこで次に使用するモデルが、こちらでも触れたModeling Social Pressures Toward Political Instabilityに出てくる、相対賃金からエリートの動態を導き出すモデルだ。細かく言うならここではTurchinの論文に出てくる方程式の両辺にN(人口)を掛け合わせた方程式が載っている。
 さらにそこに追加しているこの論文独自の方程式が修道院モデルだ。分析対象としてる中世イングランドでは大量の修道院が新設されたのだが、その修道院の設立時点や初期段階では修道院を運営するために既存エリートから一定数が駆り出され、彼らはエリート過剰生産の対象外になるというモデルだ。実際には1つの修道院について新設時に10人のエリートが駆り出され、また設立から50年間は年3%の割合で欠員補充のためエリートが修道院に吸収されるというモデルだ。いわばエリート志望者に通常とは異なる出世の道が用意されるイメージだろう。
 3つ目のモデルは社会政治的不安定性モデルだ。これまたTurchinらが記したPopulation Dynamics and Internal Warfare: A Reconsiderationという論文に紹介されているモデルで、そこでは人口と内紛の強度(内紛によってもたらされる損害)、国家の能力の3つについて方程式を構築している。人口密度が高いと内紛が起きやすくなる一方、内紛の強度が高すぎれば争いにうんざりする人が増えて強度は下がる、といったメカニズムを想定したモデルだ。

 続いて論文ではそれぞれのモデルを実際のイングランドの歴史データに当てはめている。まずは人口データと修道院数との比較(Figure 1)だ。まばらに存在する人口推定値データ間の動きを修道院モデルを使って推定したところ、プランタジネット・サイクルでの人口増は11世紀後半から始まっていたという結論が出ている。次にその人口推移に物価指数、100万人あたりの爵位を持つ貴族数、経済格差を重ねたグラフ(Figure 2)を提示。それを見る限り、テューダー=ステュアート・サイクルの終了時期は1690年頃と判断するのが妥当だと述べている。
 Secular Cyclesではプランタジネット・サイクルの時期を1150~1485年に、テューダー=ステュアート・サイクルを1485~1730年ととしていたが、この論文では前者については開始時期を、後者については終了時期を早めるべきだとの見方を示しているわけだ。プランタジネット・サイクルは12世紀半ばの無政府時代後ではなく、11世紀のノルマン・コンクェスト以降から始まったのであり、またテューダー=ステュアート・サイクルは責任内閣制を始めたウォルポールの時代ではなく、名誉革命をもって終わりを告げたという解釈だ。
 Figure 3は国家の能力を示すグラフだ。1つはGDPに占める歳入の割合で、テューダー=ステュアート・サイクルとその後にやってくる商業サイクル(1691~1850年)を示している。人口や領土の増加割合を示したグラフは、プランタジネット・サイクル以前の9~11世紀のイングランドにおけるアングロ・サクソン朝サイクルを示している。アルフレッド大王などを生んだウェセックス朝のサイクル(880~1070年)だ。人口推計と身長のデータを合わせたFigure 4を見ると、アングロ・サクソン朝サイクルより前にも1つのサイクルがあるように見えるが、こちらについては特に深く言及はしていない。
 論文によるとアングロ・サクソン朝サイクルは11世紀に入って激しいエリート内競争をもたらしたという。1013年のデーン人による侵攻が1年未満で成功したのもイングランドの内紛が理由であり、ノルマン・コンクェストから20年ほど後に作成されたドゥームズデイ・ブックに出てくる地主たちがほとんどノルマン人ばかりになったのを見ると、その際に古い地元エリートが一層されエリート過剰生産が収まった可能性があるそうだ。
 そのうえで論文のFigure 5では様々なパラメータを設定し、モデルから人口、国家の能力を算出し、それを実際の人口推定値データや国家の歳入と比較している。人口はモデルと推定値がかなりよくフィットしているが、モデルによる国家の能力は歳入の実態とずれているし、何よりプランタジネット・サイクル後半の歳入増を捉え切れていない。疫病がくり返し再来したことが影響したのか、あるいはこのモデルで国家の能力を示すSは、財政ではなく国家の正統性を示していると解釈する手がある、と論文は述べている。この場合、エリートが十分に減らないと正統性は回復しないことになる。
 というわけでFigure 6はエリート絡みのデータを載せている。爵位を持つ貴族の割合やエリートの合計などは大きく3つのサイクルを示し、相対賃金を使ったモデルはプランタジネット・サイクルを上手く表している一方でテューダー=ステュアート・サイクルの終わりはうまく捉えられていない。修道院モデルは12世紀にエリートが修道院へ吸収された動きを示しており、これのおかげでプランタジネット・サイクルの統合トレンドはほぼ1世紀延命したようだ。
 最終的に論文が推定する英国の永年サイクル(Table 1)はTurchinらの推測とは少しタイミングがずれている。また統合トレンドと解体トレンドにおける不安定性の数値を比べると、確かに解体トレンドの方が数値は高くなるがその効果は限定的だそうだ。むしろ不安定性との関係が強いのは父―息子サイクルの方ではないか(Figure 8)というのが論文の主張。確かにSecular Cyclesの中でも、例えばプランタジネット・サイクルの統合トレンドにおいて反乱や内戦が一定の頻度で起きていることは指摘されていた。
 Figure 9では戦争モデル(多分社会政治的不安定性モデルのこと)を使ったグラフが記されている。このモデルは実際に社会政治的不安定性をうまく再現できているようで、グラフを見てもノルマン・コンクェストや百年戦争からばら戦争、そして17世紀の危機などの際に内紛の強度が高まっていることが分かる。そして論文では最後に産業革命以降の時期に差し掛かる商業サイクルには、農業社会で上手く機能した各種の指標がうまく当てはまらないことを指摘している。

 面白い点は多々あるが、中でも各サイクルの具体的な時期に関する見直し、エリートの過剰生産が永年サイクルに及ぼす影響の大きさ、そして社会政治的不安定性に及ぼす父―息子サイクルの重要度といった点が興味深い。最近、ばら戦争を題材にした作品が放送されているが、あの内乱がノルマン・コンクェストから始まる長い長いサイクルの終着点だったと思うと、また別の楽しみ方も出てくるかもしれない。個人的にはテュークスベリーの戦いでようやく登場した大砲15世紀らしい形状をしていたのがよかった。
 エリート過剰生産こそが国家の正統性を最も掘り崩す、という指摘も面白い。エリート過剰がもたらす問題を解決するうえでは、社会全体を大きく成長させる以外にエリートを例えば修道院などに吸収してしまう手も使えるわけで、この点は危機の深刻度を下げるうえで参考になるだろう。もちろん危機の深刻度を下げる方法として、対外戦争における勝利(百年戦争でのエドワード3世やヘンリー5世)という平和的でない手立てがあることも分かってしまうのだが。
 そして父―息子サイクルの重要性。これは目先の「不和の時代」をどうするか考えるうえでは最も気にかかる部分かもしれない。もし社会政治的不安定性をもたらす要因としてこちらの方が大きいのだとしたら、永年サイクル上の課題解決を全く行わなくてもいずれ不安定性は落ち着きを見せる。もちろんエリート過剰生産が解消されたわけではないので、いずれ世代が回ったところでまた同じ問題が起きるだけではあるが、それでも人間は喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物だ。不和の時代が終わったところでTurchinの議論が半世紀ほど忘れ去られる、という展開もありそうに思える。
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