14世紀の船舶と火器

 ヴァロワ・ブルゴーニュ家の火薬兵器についての本を書いているDeVriesが、A 1445 Reference to Shipboard Artilleryという文章を記している。題名の通り、欧州における初期の火薬兵器を船上で使っている事例について調べたものだ。中心となっているのは1445年のブルゴーニュ公の記録にある火器だが、その前に他の事例をいくつか検討している。
 まず真っ先に出てくるのが、CipollaがGuns and Sails in the Early Phase of European Expansionの中で紹介している1336年の事例。彼によると「トゥルネーで製造された火器は1336年にルイ・ド・マルがアントワープ攻撃のために送り出した艦船に搭載された」(p75)という。
 この指摘に対しDeVriesは疑問を呈している。というのもこの時点でフランドル伯とアントワープのあるブラバントとは戦争状態になく、フランドル伯はルイ・ド・マルではなくその父親であり、そしてルイ・ド・マルはまだ5歳で彼がフランドル伯になるのはその10年後の1346年であった。従ってこの意見は「疑わしい」(p819)とDeVriesは指摘している。
 ただし問題が1つ。DeVriesはこの指摘の中で、CipollaだけでなくHenrardがこちらの雑誌に載せたLes Fondeurs d'artillerieという記事も批判しているのだが、実際にその記事を読むとアントワープ攻撃がなされたのは1336年ではなく「1356年」だと明確に記されている(p240)。DeVriesはLes Pays-Bas a la veille de la periode bourguignonneを根拠にこの出来事が1356年の可能性もあると記しているが、同じことはHenrardも書いているので、少なくとも彼をCipollaと並べて批判するのは筋違いだろう。
 Henrardはこの記事で「1356年8月、ルイ・ド・マルがアントワープ前面に送った艦隊の艦船が武装していた火器はトゥルネーで購入された」(p240)と記し、その論拠がGoovaertsの記したLa flotte de Louis de Male devant Anvers en 1356であることをきちんと脚注で示している。そしてGoovaertsは当時の記録から、この艦隊が4門のリボードカンを積載していたことを明言している。
 このリボードカンは1~2ポンドの砲弾を撃ち出す小さな大砲であり、フロワサールによれば「手押し車の上に3~4門の大砲を並べた」(p46)ようなものであった。これらの大砲がトゥルネーで製造された点については確かに記録があるという。一方、Goovaertsはこの大砲が艦上で使われたものではないとの見方を示している。リボードカンはあくまで野戦用の兵器であって艦船の装備ではなく、船で運ばれた後にアントワープで陸上に運ばれた(p47)というのが彼の見解だ。
 つまり、DeVriesの「1336年にそんなことはなかった」という批判は筋違いだが、この記録が「艦船上で使用された火器ではない」という点でDeVriesの見解は正しい。この事例はあくまで火器が荷物として船で運ばれたものと見るべきだろう。
 次にDeVriesが書いているNicolasの間違いについては、以前こちらで指摘済み。1338年の出来事とされるものは実は1411年のものだったという話だ。
 もう一つ、1338年の船上の火器を示す証拠とされているのがLacabaneのDe la poudre a canon et de son introduction en France。サザンプトンを襲ったフランス艦隊のガレー船にun pot de fer à traire garros à feu、つまり矢を撃ち出す古い大砲が積まれていたと記されている(p11)。さらに硝石(salpetre)や硫黄(souffre)についての言及もあり、これが火薬兵器を意味していたことはほぼ間違いない。
 だがDeVriesは、この火器が船上で使用された記録はないと指摘。硝石や硫黄が個別に搭載されていた点や、さらに弾となる矢(garros)が梱包(cassez)されていたことも踏まえ、これらの砲兵は「戦場となる場所に艦船で運ばれ、陸上で使われるためにそこで上陸させられた」(p820)と書いている。上に記した1356年のアントワープの事例と同じだ。またこちらの本には1394年にアレクサンドリアに向かったカタロニア船に3門のボンバルドが搭載されいてたとの史料が紹介されているそうだが、これもただの輸送品だったとDeVriesは見ている。
 次に出てくるのがスロイスの戦いで火器が使われた説だ。こちらのwikipediaにもそうした記述があるのだが、DeVriesははっきりと疑問視している。どうやら前に紹介したこの説の裏付けとなる年代記の記述の解釈におかしなところがあるようだ。
 その年代記とはBakerの記したChronicon Galfridi le Baker de Swynebroke。そこに記されているスロイスの戦いの記述を見ると、ラテン語でferreus imber quarellorum de balistis atque sagittarum de arcubus in necem milia populi detraxit(p68)という文言が見られる。この文中にあるarcubusがarquebusだと思われたのが、スロイスで火器が使われたとの論拠になったのだと思われるが、ラテン語のarcubusは弓(arcus)の与格あるいは奪格。だからこの文章を普通に翻訳するなら「弩から撃たれた矢弾と弓から放たれた矢の鉄の雨が数千人を殺した」といった感じになる。
 DeVriesもarcubusは弓としており、クロスボウ(balistis)から放たれた矢弾(quarellorum)を弓から放たれた矢(sagittarum)と対照させるように記したのだと解釈している。妥当な見解だろう。少なくともこの年代記を基にスロイスで火器が使われたと主張するのは無理がある。
 以上、DeVriesは14世紀における船上での火器の使用例とされるものを次々と否定したうえで、最後に1つだけ可能性があるそうな事例として1372年のラ=ロシェルの戦いを紹介する。フロワサールによると13隻のスペインの「あらゆる武装と装備を備えた大きなガレー船」(p123)が、「鉄製のバレル」(p128、134)で「岩」(p134、135)や「鉛玉」(p134、135)を撃ち出したそうだ。これだけ色々と記述があれば、確かに艦船上で火器が使われたと考えてもおかしくない。
 問題はフロワサールが、最初の2つの編集で触れていたこの戦いにおける火薬兵器への言及を、最後の編集で取り除いてしまっていることだ、とDeVriesは指摘する(p821)。もしフロワサールが誤りを修正するために編集を重ねていたのだとしたら、と考えると、この変更はなかなか厄介だ。

 以上、14世紀に船上で火器が使われたかどうかについては、なかなか明白な証拠がないという結論になっている。一方、これが15世紀に入ると、具体的な証拠が増えてくる。15世紀初頭にラ=ロシェルにいたフランス艦船には「クルヴリヌ4門とヴグレール2門」が搭載されていたそうだし、1410年には艦船に対する攻撃をボンバルドで迎え撃った例があったという。英国ではヘンリー4世の時代に海軍が「鉄の火器」を装備し、1416年に2門の大砲を載せていた船を1422年には「大砲6門と薬室12個」まで増やしたとの記録もある(p821-822)。
 さらにDeVriesは表題にもなっている1445年のブルゴーニュ公の艦船について話をしている。この船にはそれぞれ3つの薬室を持つ5門のヴグレール(長さは4ピエ)と、据え置き式のクルヴリヌ2門、そして手持ち式のクルヴリヌ12丁が搭載されており、他にもいくつもの弩(arbalestes)や巻き上げ機(guindaulx)を積み込んでいたことがAppendixに載っている史料(p828-829)から分かる。これらの火器は後装式であることはおそらく間違いないが、ヴグレールについてはわざわざ薬室と石弾を「後ろから」装填したという記述があり(p825)、他では見られないこの記述が何を意味しているかについてもDeVriesは色々と検討している。
 彼の主張がどこまで正しいかについては、今後も調べる必要があるだろう。だが火器が導入された初期において、それが船と絡んで記述された史料にどのようなものがあるかを調べるうえで、この文章はとてもいい入り口になる。後の時代には大砲を積み込んだ欧州の艦船は世界に影響を及ぼす存在となったが、そうなる前について記した本は少ないだけに、実に興味深い文章だ。
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