国内での「不和の時代」っぽい話についてはこれまで
何度か
紹介している。そうした事例の一つと思えるものについて、少し前に面白い分析をしていたのが
こちらだ。そこでは単に騒動を紹介するのではなく、それに関連してウェブモニター調査を行っている。ネット調査というと極めていい加減なものも多いが、こちらは調査会社を通し、年齢と性別で均等割り付けを行なったうえに設問文をきちんと読んでいるかもチェックしている。もちろん年齢と性別以外の属性(所得や職業など)については偏りがあるかもしれないし、そもそもこういった調査には誤差がつきものなので、全面的に信用するのは拙いだろうが、それでも一定の信頼度を置けそうな調査なのは確かだ。
質問内容などについては文章を読んでもらうとして、最も興味深いのは「
ロジット回帰の限界効果」についてまとめた図5の部分だ。件の広告に問題を感じる人が、説明変数の変化に応じてどのくらい変わったかを示しているもので、例えば年齢が1単位(10歳)上がると広告に問題を感じる人の割合が1.3パーセントポイント増えることを意味する。女性だけならこの割合は2.8パーセントポイントに高まる。この図に関する解釈はこれまた記事を読んでもらえばいいだろう。
2つ目は、永年サイクルに基づくトラブルでなく、もっと長期的な社会の動きに伴う包括適応度の変化がもたらす対立だ。要するに産業社会、特に知識が求められる社会では、
古い枢軸宗教よりも、
世俗的啓蒙の方がより高い包括適応度につながる、という考え。新たな世俗的啓蒙に従う者たちと、それが広まると自身の包括適応度が下がると恐れる者たちの対立が起きているのではないか、という仮説だ。
この2つ目の説は、さらに細かく分けることができる。1つは世俗的啓蒙により親和的なのは女性の方であり、そのために男女間の対立という形で不和の時代が表出しているという考え方だ。もう1つは
ベルカーブの右側と左側の対立という仮説。もちろんそれぞれの仮説は互いに排他的なものではなく、
女性の方が男性より数学でも言語でも能力の高い者が多いとの研究もある。以上のような仮説と、今回の調査を比べ、このケースにはどの仮説が上手く当てはまっているかを調べてみたい。もちろん、あくまで私個人の解釈であり、以下の考えが正しいとは限らない。
まずは図5に出てくる各種説明変数のうち、有意でないものを確認しておく。マンガを読んだ人の中で回帰分析が有意になっていないため、コンテンツの中身が分断をもたらしているとは判断できない。中高生の娘がいるも同じく有意でなく、足元の国内での治安や犯罪状況に対する親の懸念が分断の原因とも思えない。性別役割分業志向、つまりステレオタイプや無意識の思い込みといったものを巡る分断にも見えない。ジェンダーについて保守的かリベラルかという価値観が、この分断をもたらしているわけではないのだろう。2番目にある通り女性の方が批判が多い点は、上に述べた仮説のうち「男女間の対立」というものとよく一致しているように見えるが、性別役割に関する部分で相関が乏しい点を見ると断言できるほどの論拠があるとは言い難い。
一方、IQや学歴がらみの分析は行われていないため、ベルカーブの左右どちらかという仮説についてはそもそも確認できない。ただ、一般論として若い人の方が学歴が高い傾向があるのは確かであり、それを代理変数として使うのならベルカーブの右側ほどこの広告を問題視していないという結論になる。ただし20世紀末頃にはIQが上昇する
フリン効果が終わっているとの説もあるため、あまり当てにはしない方がいいだろう。
むしろ記事にある通り、年齢の違いは「萌え絵への慣れ仮説」に基づくものだと考えた方がよさそうに思われる。単純に見慣れているかどうかに応じて反発度合いが決まっていると見た方がスマートに説明できるし、そこで敢えて世俗的啓蒙を持ち出す必要もなさそうだ。同じことは「マンガをよく読む」人たちに広告を容認する傾向があることとも整合的である。最も不可思議なのは絵やイラストを描く人々の反発で、これについては記事中の仮説を認めるか、あるいは母数が小さいため「たまたま」極端なデータが出てきた可能性などを考えるくらいしか私にはできない。
ちなみに記事中では3番目の「既婚者が広告に批判的」な理由について分からないとしているが、こちらは既婚者の方がおそらく平均年齢が高いため、という可能性が考えられる。個人的に日本ではこうしたオタクカルチャーに親和的な人ほど結婚に消極的で、逆に結婚に前向きな人はオタクカルチャーに批判的な傾向が存在する可能性があるんじゃないかと思っているのだが、今回の調査でそこまで裏付けるのは難しいだろう。
より興味深いのは8番目以降のデータだ。痴漢に厳罰を求める人ほど批判的という点について、記事では「性被害への問題意識の高い人」という切り口で論じているが、個人的には性被害に限らず規範意識の強い人ほど広告に批判的だったと考えることも可能だと思う。もしそうであれば、この人たちは「正義」を重視する人だとも考えられる。同様に10番目に出てくる男性が優遇されていると認識する人々も、フェミニズム的なジェンダー平等という「正義」を求める人たちであると解釈しても、それほど違和感はないんじゃなかろうか。求めるべき理想があり、その理想に反しているから批判する、という行動原理は共通している。
これに対して反対の傾向を示しているのが11番目の「言論・表現の自由と正義」だ。自由を優先するほど数値が大きくなるように設定しており、つまり「正義」より自由を優先する人々ほど広告を容認している傾向が見て取れる。記事の最後にある通り、今回のケースで働いている対立軸は「正義vs言論・表現の自由」だと考えていいのだろう。「一般論として正義を重視する人が広告を批判し、言論・表現の自由を重視する人が広告を容認している」という指摘はその通りだと思う。
そして、現状における「自由」を容認する人々は、基本的に今の社会にそれほど不満を抱いていないグループだと考えられる。基本的に広告を容認している方が多数派である点を踏まえても、彼らは今の社会におけるルールに満足していると見ていいだろう。一方、正義を掲げる側はその(暗示的な)ルールに対して反対するために「正義」を持ち出しているのではなかろうか。正義の旗印を使って自由を制限しようとするのは、今のルールが認めている自由の範囲に不満を持っているから、と考えるのがもっともらしいと考えられる。
以上を踏まえると、今回の件について最も当てはまりそうな仮説は「エリート過剰生産」のように思える。特にこの問題でターゲットになったのが昔からあるマスコミ(つまり伝統的エリート)であり、ガソリンを注ぎにいったのが最近作られたネットマスコミ(新興の対抗エリート)であることを考えると、よりエリート内紛争という側面が理解しやすくなるだろう。もちろん世俗的啓蒙の拡大に伴う男女間対立という側面もあるだろうが、女性であっても容認派の方が多いことを踏まえるなら、その傾向をあまり過剰に評価しない方がいいと思う。ベルカーブ仮説についてはそもそもこの調査を使って裏付けを取るのは困難だ。
なお、今回の件を見ても思ったのだが、この手の話題で「正義」を掲げて火をつけに行く側は、基本的に既存エリートを引きずり下ろしたい対抗エリートであるケースが多いように感じられる。要するに自分の待遇に対する不満を、「正義」の名の下に主張するのが彼らの行動原理ではないか、ということ。それが極端になると、陰謀論を掲げる光の戦士になったり、ダブルスタンダード上等なキャンセルカルチャー推進派になったりするんだろう。最終的には「自分はもっと偉くなるべき」が目標だが、それを真っ当な手段で達成できないから、正義を掲げて極端なことをするようになる、という仮説だ。
その社会で高い包括適応度を達成できる能力を持っているなら、社会の既存ルール内で行動しても何の問題もない。だがそうした能力がなく、もしくは競争激化のために求められる能力が高くなりすぎた結果としてその社会では自分の包括適応度が上がらないと思い込んでしまうと、既存ルールを覆すために「正義」を理由に極端なことを言い出す。それが足元で猖獗を極めているアイデンティティ・ポリティクスの一皮むいた中身、ではなかろうか。
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