ポーランドの永年サイクル

 これまで日本ボヘミアの永年サイクル、ロシアの政治ストレス指数(PSI)を調べたり、あるいは中国のPSIについて紹介してきた。もちろんGoldstoneやTurchinが調べた英国、フランス、古代ローマ、中国などの事例もある。実際の歴史に構造的人口動態理論(SDT)がある程度は適用できることを示しているわけだが、一方で対象になっていない国も多数ある。
 そのうちの1つとしてあるポーランド人が、実際に自国にSDTを適用したらどうなるかを調べている。現時点ではポーランド語のblogのみだが、英語化も進めようとしているそうだ。と言っても今では自動翻訳がかなり優秀になっているため、現状でも内容を把握するのはさして難しくない。というわけでせっかくなのでポーランドの歴史的な永年サイクルがどのように動いているかについて見てみよう。
 予め結論を述べるなら、まだblogの筆者も調査中といったところで、現時点で分かりやすい結論が出ているわけではない。中世末期から近代にいたるポーランドには、1つの長い永年サイクルがあったか、もしくは2つのサイクルが存在していたかのどちらかではないかと筆者は見ている。

 筆者はまず最初のエントリーで、社会政治的不安定性のデータを取り上げている。10世紀から20世紀までのポーランドの対外及び対内紛争をまとめたもので、対外戦争についてはポーランドから仕掛けたものと、ポーランドが防衛側だったものに分けている。途中に載っている図のうち、ライトブルーが攻撃側、ダークブルーが防御側で、赤は内乱を示している。見ての通り、11~14世紀には内乱や防衛戦争が多く、15~16世紀には攻撃戦争が、17~18世紀にはまた内乱や防衛戦争が増えている。
 blogでは内乱や防衛戦争が多い時期を解体トレンド、攻撃戦争の多い時が統合トレンドだと解釈している。その上で焦点を当てているのは15世紀以降のサイクル。14世紀末から16世紀後半までポーランド王であったヤギェウォ朝の時代が永年サイクルにおける統合トレンドであり16世紀後半から18世紀末の選挙王制の時代が解体トレンド、ではないかという結論だ。社会政治的不安定性はSDTでは目的変数であり、その背景にある構造を示す説明変数ではないが、サイクルの存在を調べるうえでは役立つということか。
 続いて2回目のエントリーでは人口データを活用している。以前こちらで紹介したMcEvedyとJonesのAtlas of World Population HistoryMaddison Projectなどのデータを使ったもので、それによると13世紀、15世紀、19世紀、第二次大戦後に人口増が、14世紀、戦中、そして21世紀に人口減があったことが分かる。
 ここで興味深いのは2つ目以降の図だろう。TurchinのHistorical Dynamicsに載っている欧州諸国の人口推移とポーランドを組み合わせたグラフを見ると、どちらも14世紀に人口減を経験しているのが分かるが、他の欧州諸国が人口減に見舞われた17世紀前半に、ポーランドでは人口減がなかったことになっている。また19世紀の人口増ペースは他国より速く、19世紀末には成長が止まった。まあ古いデータになるとどこまで信頼できるか分からないが、これを素直に見るなら15世紀から19世紀までで1つのサイクルになっているという1回目と似た結論が導かれる。
 3回目のエントリーで取り上げるのは遺跡から発見された人骨を使った身長データだ。ただしこちらはかなりデータが粗く、例えば最初に出てくる表だと13~15世紀にかけて身長が伸び、16~18世紀に身長が低下していることしか分からない。他に都市単位のデータだとグダンスクでは15~16世紀に身長がピークを迎え、ラドムでは14~17世紀がピークとなっている。結局のところ、具体的にどこがピークで、どこから落ちているかが細かくは分からない。
 blog筆者もデータの解像度の粗さゆえに、調べようとしている永年サイクルの存在を理解するうえではあまり役に立たないと見ている。また人骨を調べる方法の場合、専門家によると一種の「パラドックス」が発生するのだそうだ。経済的に繁栄している時代だと小柄な人間でも生き延びることができ、そうでない時期は大柄な人間でないと生き延びるのが難しい。つまり豊かな時代ほど考古学的には小さな身長の遺体が見つかりやすくなる、らしい。となると考古学的な身長データから永年サイクルについて調べるのは難しいのかもしれない。
 4回目のエントリーからは労働賃金を使っている。Turchinは平均賃金と1人当たりGDPを比較した相対賃金を重視しているが、この4回目ではまず実質賃金を見ている。最初のグラフでは黒線が実質賃金の水準であり、赤線はその逆数となっている。要するに赤線はポーランドの大衆困窮度を示す指数と考えればいい。16世紀後半から18世紀末にかけ、ポーランド大衆の困窮度はU字型のグラフを描いているのだが、このグラフはTurchinが調べた英国の困窮度(山型)とは真逆になっている。
 人口のグラフでも見た通りポーランドには「危機の17世紀」が存在しなかった、という風に見えるグラフだ。だが話はそう簡単ではない。というのもポーランドの場合、都市によって賃金の推移がかなり異なっているためだそうだ。blogでは複数の文献で取り上げられているクラクフ、グダンスク、ワルシャワ、ルヴフ(リヴィウ)それぞれの都市ごとの実質賃金についても分析している。文献によって微妙に傾向に違いもあるが、大きな流れは同じだという。
 まとめたデータは最後のグラフにのっている。黒い線が最初のグラフでも示したポーランド全体の困窮度の推移だが、それと近い推移をしているのはグダンスクくらい。そこでは1500年頃に始まったサイクルが1700年頃に終わり、そこから次のサイクルのピークが1800年頃に訪れている。クラクフの場合は1400年代前半から始まったサイクルが1600年代に終わり、次のピークが1700年代半ばに来ている。ワルシャワやルヴフもまた微妙に異なるグラフとなっている。筆者は17世紀半ばがサイクルの境界線である点は共通しているのではないかと見ている。
 そして5回目で取り上げているのが相対賃金。最初のグラフのうち赤い線が非熟練労働者の相対賃金だが、15世紀末にかけてまずは低下し、16世紀には上昇するが17世紀初頭から再び下がり始めて18世紀後半まで低下を続けている。筆者は1530~1770年が1つのサイクルに相当するのではないかとの見方を示している。
 2つ目のグラフは実質賃金(赤)、1人当たりGDP(緑)、相対賃金(茶色)をまとめて載せたものだ。筆者はまず1450年からのおよそ100年は経済拡大と実質賃金の拡大が並走している成長局面、16世紀の後半はエリートの取り分が減っているため、成長局面からスタグフレーション局面へ移行する前段階、1610~1660年はエリートの取り分が増えるスタグフレーション局面と見ている。問題は1660年以降で、解体トレンドにおける変動の範囲内と見るべきか、それとも30年ほど新たな成長局面が来ているのか、判断しかねている。1700年以降は再びスタグフレーション局面が到来し、そしてポーランド分割という危機がその後に到来している。

 以上、5回目までのエントリーを読む限り、社会政治的不安定性や人口のデータだと15~18世紀の400年という長い1つのサイクルが、賃金に注目すると1450~1660年までと1660~1790年という2つのサイクルが存在すると解釈できるそうだ。こうした「新しいサイクルと見るべきか、解体トレンドの中の変動と見るべきか」問題はローマ帝国末期にもあり、もしかしたら両者には似たようなメカニズムが働いていたのかもしれない。
 そのメカニズムとは「過剰エリートの温存」ではなかろうか。以前、日本について分かりやすい永年サイクルを特定できないのは「外部からの侵攻の恐れが乏しい中で緩やかな内紛状態が続いている」ためではないかとの推測を述べた。同じメカニズムがポーランドや西ローマ帝国にも当たるのではなかろうか。ローマ帝国にとって強力な敵は東方のササン朝くらいしかなかったし、東欧の大国だった17世紀のポーランドにとってはその存立を脅かすほどの隣国がなかった。ロシアはまだロマノフ朝成立前の混乱期で、ドイツは宗教戦争の真っ最中、オスマン帝国はアナトリアでジェラーリの乱がおきていた。隣国に滅ぼされる恐れがない場合、労力をかけてエリートを凝集させる必要がなく、そのため選挙王制という過剰エリート体制が温存されたのだろう。
 もちろん目先の労力を惜しんだ結果、ポーランドはやがてエリートを凝集させた隣国に削り取られて姿を消したわけであり、同じく西ローマも滅んだ。日本のように物理的に侵攻が困難な地域でもない限り、過剰エリートの温存は先々に禍根を残すのかもしれない。そう考えると、危機の深刻度を下げる取り組みは、もしかしたら将来に大きなツケを回す行為なのかもしれない。
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