ウクライナでの戦争を見ていて感じたことについて、
あるツイートが興味深い指摘をしていた。「『新しい時代の軍隊はコンパクト、スマート、スピーディだ』みたいなやつ、予算を節約したい政治家の受けが良いので、冷戦後に多くの国で採用されましたが、大抵失敗」というこの指摘は、前に
こちらで記した「『高度な装備と訓練を誇る少数精鋭の常備軍』なるものは、実は米国以外では単なる幻だった」という推測と、ある意味似通っている。
この、冷戦後に使われるようになった「コンパクト・スマート・スピーディな軍隊」という概念に近いのは、しばらく前に話題になった
「軍事における革命」ではなかろうか。将来の戦争における軍事理論仮説という位置づけで唱えられるようになったこの概念が焦点を当てていた分野は3つ。1つ目は国民国家の変質とそれに伴う組織化された軍事力の使い方の変化であり、2つ目は技術進化に伴う戦い方の変化、そして3つ目が真の軍事における革命はまだ起きていないという観点、なのだそうだ。
ただしこうした技術を上手く使っているウクライナ軍は、別にコンパクトな軍勢とは言い難い。国力の差があるためロシア軍より少ない面はあるが、彼らが2014年以来の戦争を通じて兵士の数を増やしてきたことは前に指摘しているし、スマートではあるかもしれないがキーウ付近のロシア軍の退却を許したようにその動きはスピーディとまでは言い難い。3要素を兼ね備えたRMA的な軍隊は、実は米軍レベルの火力や輸送力が前提になっているわけで、
「大抵の軍隊で模倣すると火力も展開力も弱い軍が出来かねない」ということなんだろう。流行の仮説に乗っかって軍事改革をやったつもりだったのが、実際には単に軍を弱体化させただけだった、という状態になっている国が量産されているのかもしれない。
しかしこれ、歴史的に言えば多分極めて珍しい現象だと思う。よく「将軍は前の戦争を想定して備える」ということが言われる(
出典ははっきりしないらしい)が、冷戦後の諸国は過去の戦争ではなく「本当にそうなるかは分からない未来の戦争」を想定して備えようとしたわけだ。もちろんその背景には「予算を抑えられる」という具体的メリットがあったのは確かだろうが、だとしてもそうしたケースは歴史上においてほとんど存在しなかったんじゃなかろうか。何しろ第一次大戦がはじまる直前になっても
「騎兵には輝かしい未来がある」と言っていた例があるくらいだ。
そう考えると、現代人に染み付いた「進歩」概念、あるいは「研究開発の重要性」といった観念の強さが窺える。
戦争技術の発展がそれまでの実地試験を通じた試行錯誤から研究開発へシフトしていったのは19世紀からだが、実際に戦争を戦う将軍たちが研究開発に合わせた戦争準備を整えるのを当たり前だと感じるようになったのはその次の世紀も末になってから、ということなんだろう。だがこのRMA的な方向性が本当に正しいかどうかは、目下のところ疑問符がつけられつつある。ウクライナでの戦争は今のままだと大半の国に「予想していた軍備では戦えない」「戦争の在り方をもう一度見直さなければならない」という教訓を導きかねないんじゃなかろうか。
もう1つISWが注目していたのが、上にも紹介した
ドネツ川の渡河失敗だ。どうやらこの作戦失敗はロシアの軍事ブロガーの目にも留まったそうで、これまでロシア軍を称賛していた彼ら(?)がロシア軍のリーダーシップに対して批判的なことを言い始めているらしい。ロシアはこれまで延々とプロパガンダを流し続けていたが、この作戦失敗を受けて実際に何が起きているかに懸念を抱く向きも出てきた格好でで、検閲の厳しいロシアでは政府寄りではあっても独立した言論を提示している個人に対する信頼が厚いため、その影響力が大きいとISWは指摘している。
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