オスマン帝国に火薬兵器が伝わったのは1380年代。1440年代には大砲、投石機だけでなく、アルケブスまで保有するようになっていたらしい。当時、オスマン帝国が各地の城にどれだけの大砲とアルケブスを配置していたかについてはTable 1(p89)に記されている。分かっている範囲で
サーペンタイン・ロックが15世紀初頭の誕生だったから、それから半世紀も経たないうちに既にアルケブスに類する言葉が登場していたのはいささか驚きではある。
オスマン帝国のラーガー戦術がフス派の流れを汲むものである点も紹介されている。帝国が最初にこれと遭遇したのは1442年のヤーノシュ・フニャディ率いるハンガリー軍との戦争だそうだ。その有用性にはすぐ気づいた一方、オスマン軍は対抗策も生み出した。1444年にはラーガーからの飛び道具が届かない距離で敵を包囲し、これを追い詰めるという戦術をすでに実行に移している。オスマン帝国自身がラーガーを採用した時期は明確ではないが、15世紀後半には敵から学んだこの手を使い始めていた。
15世紀のオスマン帝国でどのように火薬兵器が広まっていったかはTable 2(p94)にある。初期の頃はおそらく火器を伝えてきたキリスト教徒が武器の扱いも任されていたが、後半になると砲兵の多くがムスリムへと変わっている。16世紀以降の兵力についてはTable 3(p96)とTable 4(p97)に載っている。砲兵の増加は15世紀末にかけての時期と、17世紀後半が目立っている。一方、有名なイェニチェリの戦力は16世紀半ばまでは1万人に満たず、火器の数も数千と限定的だ。
イェニチェリによる輪番射撃についても、
以前紹介したモハーチの戦いなどに触れている。この戦いについてオスマンの年代記作家は彼らが9列に並び、「1列ごとに銃手が銃を撃った」と書いているそうだ。1605年になると、銃を持った兵は鎖でつないだ大砲の背後に3列に並び、最初の列が撃った後に2列目が撃ち、1列目はしゃがんで弾込めを行ったという記録が出てくる。こちらは明確に輪番射撃と言えるだろう。
オスマン帝国の武器についても簡単に書いている。特に大砲については前に紹介した本よりも分かりやすく整理されている。オスマンの帝国で中心となっていたのは小型のもの(砲弾重量1.8キロ以下)であることは前にも紹介したが、17世紀後半から18世紀後半までの具体的な製造割合がTable 5(p101)に載っている。小型のもの(Agostonはシャカロズとプラングの名を挙げている)は、小さいものだと砲弾重量がたったの31グラムしかなかったという。これはオスマンで使われていた大型の銃(銃弾の重量18グラム)の倍もないわけで、ものすごく小さな大砲だったのだろう。
砲弾重量が1.8キロから13.5キロまでの中型砲の代表とされているのが、
インドの話でも紹介したザルブザン(ダルブゼン)だ。欧州では
小型のファルコネットから、もう少し大きいセイカー、ファルコンといったあたりの大砲に相当する。大型の攻城砲として名前が挙がっているのはバジャルシュカだが、こちらの砲弾のサイズは非常に幅広く、欧州のセイカー、ファルコン、ハーフ・カルヴァリン、カルヴァリン、キャノンといった色々なサイズの大砲と比較されている。いつ、どこで、どのくらいの大砲が製造されたかはTable 6(p103)参照。
オスマン帝国の戦いで本当に火薬兵器が決定的な役割を果たしたのか、という観点からの記述も面白い。まず15世紀時点ではベオグラードの攻囲失敗など、火力と数的兵站的優位を組み合わせてもうまくいかない例はあったという。16世紀初頭の
チャルディラーンの戦いではそもそもの兵力差とサファヴィー朝に火器が不在であったことなどが、
マルジュ・ダービクの戦いではマムルーク側司令官の戦死が、戦いの行方に影響を及ぼした。
リダニヤの戦いではオスマン帝国がスパイや捕虜を通じてマムルーク側の作戦を知っていたことが勝因だったという。モハーチでは再び数の優勢がモノを言い、逆に大砲はあまり役に立たなかったそうだ。全体として火薬兵器というテクノロジーがオスマン帝国の隆盛をもたらした主な要因というわけではなく、他にも兵の数や質、それを支える兵站といった総合力において隣接国より勝っていたのが理由だという立場だ。
この文章でAgostonは軍事革命論の批判をしている。火薬の発展が兵力の増加につながり、それが軍事=財政国家の誕生へとつながったという説は、西欧の一部の国の事例を一般化しすぎているという主張だ。上に記した火器の影響力についての言及もそうだし、後半部に載っているオスマン軍の兵力増加の原因に関する分析でも、その部分に注目している。
オスマン軍の規模拡大についてはTable 7(p112)に載っている。最初の拡大が始まったのはスレイマンの時代(16世紀半ば)で、その後も17世紀の後半あたりまで急速に戦力の増強が進んでいる。ただしこの要因が軍事だけに由来するかというとそうでもない。確かにスレイマンの時代に戦争のために必要な兵力が増えた面はあるが、それ以外にも後継争いのためスルタンの息子たちが私兵を集めまくった面があったそうだし、またそうした連中はしばしば反乱も起こした。17世紀に入れば
ジェラーリの乱によって国内の治安が悪化し、それがさらに兵の増強を必要とする原因になった。
治安維持のため地方に送り込まれたイェニチェリは、そこで税を集めるという特権を手に入れたのみならず、さらに商売に手を染めて多くの利益を上げることが可能になった。オスマン帝国も他国同様、
17世紀前半にかけてインフレに見舞われており、イェニチェリたちも国からもらう給与だけではやっていけなかったようだ。だがこうした変化はイェニチェリになりたがる民間人を生み出し、一方でそれまで商売をやっていた民間人たちの市場をイェニチェリが奪うことにもつながった。
軍人であるはずのイェニチェリたちが商売人と化しても、しばらくオスマン帝国は持ちこたえられた。その一因は、訓練期間が短くて済む火薬兵器にあったという。15世紀末のイェニチェリは平均して13.5歳で部隊に入り、弓の訓練を長く受けたが、17世紀初頭になると彼らが部隊に入るのは16.6歳になっていたそうだ。イェニチェリはもはや軍人というよりは商人・職人となってしまい、戦争のたびに新たに一般人から兵をかき集めなければならなくなってしまった。
イェニチェリだけでなく、地方の総督が軍の調達を賄うといった、一種の軍閥化の動きも進んだ。こうした流れについてAgostonは「権限移譲」と呼んでいる。敵対するオーストリア軍の巨大化などもオスマン軍の拡大をもたらした一因だが、その対処法は必ずしも中央集権的な軍事=財政国家だけではなく、逆に分権化する道を選んだ例もあったということだろう。それでも18世紀の前半までオスマン帝国の軍はそれなりに効率的に戦った。彼らが明らかに衰退に向かい始めたのはその後だ。
このあたりの問題は軍事革命論の是非だけでなく、永年サイクルやアサビーヤといったCliodynamicsとも絡んでくる面白そうな話だ。以前に
こちらでも少し触れたが、オスマン帝国だけでなくポーランドもまた17世紀の危機を通じて分権化が進んでいる。なぜ同じような構造人口動態的な危機に晒されながら、一部の国は集権化を進め、一部はむしろ分権化してしまうのか。何らかの共通した原因でもあるのだろうか。
Agostonの文章はあくまで軍事革命論に反論するものであり、内容も主にその部分に焦点を当てている。この時期にオスマン帝国が社会政治的にどう変化したかについて詳しく分析したものではない。従って彼の文章を読んだだけでは結論は出せない。それでも違う方向に向かった国々のどこにそうした要因があるのかを調べると、Turchinらの議論をさらに補強することができるかもしれない。もしかしたら逆にそれに反対する論拠になるかもしないけど。
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