1796年ドイツ(byナポレオン)その4

 承前。


IV.
 とうとうフランス政府は、モローによるライン左岸での機動がサンブル=エ=ムーズ軍に対する支援になっていないことに気づいた。かくして彼はライン河を渡るよう命じられた。6月24日午前2時、ドゼーは2500人と伴にエーレン=ラインの中州を確保し、午前中にケールを奪取して捕虜800人と大砲12門を奪った。夕方に彼は船橋の建設を始め、25日正午に完成した。その日のうちに彼の2個師団、予備騎兵、司令部とフェリーノの師団、計4万人が右岸へ渡った。サン=シール将軍は麾下の2個師団と伴にマンハイム橋頭堡対岸の右岸にとどまり、フェリーノの1個師団は上ラインにいた。コンデ軍とシュヴァーベン派遣部隊を含む26個歩兵大隊を率いるシュタライ将軍は、スイスからラシュタットに至るライン河の防衛を任された。ラトゥールは22個歩兵大隊と伴にマンハイムにいた。彼はラシュタットからマイン川までの線を守り、左岸のマンハイム橋頭堡を占拠していた。シュタライの兵は右岸に散らばっていた。彼はケールからほとんど2リーグの距離に1つはヴィルシュテート、他方はオフェンブルク近くに2つの小さな幕営地を持っており、それぞれ6000人の兵がいた。
 26日、フェリーノはライン河へ進み、ヴィルシュテートへ前進した。28日にはオフェンブルクへも進んだ。敵は双方から撤収した。同時にドゼーは、彼の軍団と軍の予備と伴に、シュタライ将軍が1万人を率いて布陣しているレンヒェンに前進した。彼は勢いよく攻撃し、敵を追い払い、大砲10門と捕虜1200人を得て敵をラシュタットまで追撃した。そこにはマンハイムからラトゥール将軍が2万5000人を率いて到着し、ムルク川の背後に布陣したばかりだった。しかしサン=シールは敵がマンハイムから上ラインへ移動したと知るや否や左岸を通って彼らを追撃し、ケールの橋を渡り、フロイデンシュタットへ前進してクニービスの山にあった堡塁を制して、終日続いた激しい戦闘の後でムルク川を強行渡河した。7月15日、ラトゥール将軍は約1000人を失ってアルプへと後退した。フランス軍司令部はラシュタットへ移った。その間、フェリーノはケンツィヒを確保し、ライン河を遡り、そして彼が急ぎ前進している間に左岸にいた各旅団が河を渡り、彼の兵力を増やした。
 6月24日、ケールでのライン渡河を知った大公は、ジュールダンを見張るためヴァルテンスレーベン麾下に3万6000人と、メンツを守るためヘヒツハイムの防御陣地に2万6000人を残し、上ライン軍を支援するため24個歩兵大隊及び2個騎兵大隊の先頭に立って行軍した。アルプの背後でラトゥール将軍の部隊を再編したことにより、彼は45個歩兵大隊と80個騎兵大隊を麾下に収めた。即ち、左翼の山岳部にはカイム将軍麾下の19個歩兵大隊と19個騎兵大隊が、中央のエトリンゲン前面には13個歩兵大隊と28個騎兵大隊が、ラトゥール将軍麾下の右翼には10個歩兵大隊と29個騎兵大隊があった。3個歩兵大隊と24個騎兵大隊は監視用だった。この大量の部隊と伴に彼は10日にフランス軍を攻撃して彼らをライン河へ追い落とすつもりだったが、モロー将軍はこれを予想していた。
 9日、サン=シールはローテンゾールを突破してカイムを破り、ザクセン兵をネッカー川へ追いやった。先手を打たれたカール大公は中央と右翼をドゼーに向かって行軍させた。後者は大公の攻撃を持ちこたえ、勇気を奮って一日の大半の時間、その場を維持し、夕方に少し後方の陣地へ退却した。この精力的な抵抗は敵を威圧し、既にナウエンブルクに到達していたサン=シール将軍に退路を断たれることを恐れた彼らは、フィリップスブルクとマンハイムの守備を完全にするために10個歩兵大隊を分遣した後で10日にプフォルツハイムへ退却した。翌日、彼らはサン=シール将軍に追撃されながらシュトゥットガルトへの行軍を続け、そこでネッカー川を渡った。その間、フェリーノ将軍はキンツィヒ川沿いのビベラッハの陣を突破し、シュヴァルツヴァルトを越え、ヴィリンゲンに到達した。敵はライン河とシュヴァルツヴァルト間の全ての土地から完全に撤収した。森林内の町々はフランス軍の守備隊を受け入れた。

(注:本来、1段落目と2段落目、及び3段落目と4段落目は同じ段落だが、改行しないと「使用できない文字列が含まれている」との表示が出て書き込みができない。yahoo blogがかけている意味不明な規制のために真っ当な記述が出来ない点はご容赦願いたい。文句があったらyahoo blogの運営者まで)


 以下、次回。

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