イタリア・1794年春 13

 1794年春のイタリア戦役の経緯は以上でほぼ終わりだが、少し追加がある。Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によればセリュリエ将軍の偵察隊が11日に「峠とサント=アンヌ教会」に布陣したとある。おそらくイゾラからシャスティヨン川を遡ったところにあるサント=アンヌ祈祷堂とその北方にあるサンタナ峠のことだろう。さらに数日後にはその峠とフィネストレ峠の間にあるフレマモルテ峠もフランス軍の手に落ちた。マセナは右翼師団を再びガレッシオに移した。
 4月上旬から5月上旬までのほぼ1ヶ月にわたる戦役を通じ、フランス軍はニース伯領の北部で抵抗していた連合軍を追い払い、アルプスの稜線にあるいくつもの峠を奪取することに成功した。後はこの稜線からピエモンテの平野部まで進出し、サルディニア王国を対仏大同盟から脱落させることができれば、フランスとしては大きな軍事目標を達成できたことになる。だが実際にその目的を達成したのはこの時から丸2年後、ボナパルトがイタリア方面軍司令官になってからだった。フランス軍はこの後も、しばらくマリティーム=アルプス山中での山岳戦を継続することになる。

 以上、長々と戦役の流れを紹介してきた。基本的にはフランス軍が勝利した戦役と言えるが、戦争の進め方としてはかなりぎこちない印象がある。まずはオネーリャの奪取が優先され、次にポンテ=ディ=ナヴァを経由してタナロ河沿いに拠点を確保。ところがそのまま北上してピエモンテ領を脅かすのではなく、部隊は西に転じてサオルジオ戦線の側面を突くべく雪の山中で面倒な作戦を行い、さらに一息入れた後で最終的にテンダ峠まで歩を進めて連合軍をアルプスの向こう側に追い落とした。単一の目標に真っすぐ進んだのではなく、局面ごとに新しい目標を設定しなおし、作戦を進めた格好だ。
 それでもフランス軍が常に主導権を握り、連合軍を翻弄してきたのは間違いない。オーストリア=サルディニア軍は常に後手に回り、十分な対処ができないまま戦闘を強いられる場面が目立った。オネーリャ公領には元々兵力が少なく、数千人の軍勢を送り込んできたフランス軍に対してはろくに戦うことすらできなかったし、ジェノヴァとピエモンテ国境にはほとんど兵がおらず、ダルジャントーが慌てて集めた部隊もポンテ=ディ=ナヴァで簡単に蹴散らされた。
 地理的には防御側にかなり有利なサオルジオ東方の稜線での戦闘についても、連合軍側は戦線の弱いところを結果的に突破され、1793年にフランス軍の攻撃を跳ね返した強力な防衛線の大半を戦うことなく放棄する羽目になった。テンダ峠を守るために敷かれたコルドンは、元々時間稼ぎのみが目的だったが、それすら果たせないほど容易に突破され、最終的にアルプスの峠の大半がフランス側の手に落ちるのを防げなかった。
 一方的な展開になった大きな要因が数の差にあったのは間違いないだろう。フランス軍はコルシカ攻撃用の部隊などを転用して万単位の兵力を集めていたが、連合軍はずっと少ない数で広い戦線を守ることになった。彼らは冬営のため多くの部隊を背後のピエモンテやロンバルディアの平野部に戻しており、戦闘が始まってもそれらの部隊がすぐには駆け付けられなかったのが理由の一端だ。連合軍側の部隊展開について最終的な命令を出していたのはオーストリアのド=ヴァンであり、彼の配置が拙かったとする批判は多い。
 同様に、この時代によく見られたコルドン、つまり薄く広げた戦線がどれほど極端なものだったかもよくわかる。紹介してきた文章を見れば、時に2桁単位の兵が特定の持ち場に配置され、そこで何らかの役割を果たすことが期待されていたのが分かる。数十人という中隊未満の戦力で実際に何ができたかというと、読んでいても正直あやしいものだが、それでもそこまで細かく部隊を分割し散らばらせることが当たり前に行われていたのだ。
 もちろん、それに対するフランス側の攻撃も、この時代ならではの「複数縦隊による広正面の進撃」を採用しており、後のナポレオン戦争で見られたような極端ともいえる兵力集中とは程遠かった。1つの縦隊が途中にいくつにも分かれる事例も多々見られるが、こうした動きは別にオーストリア軍などに特有のものでもなかったわけだ。それでもピエモンテ側がかなり士気阻喪しており、特に終盤はろくに抵抗することなく逃げ出していたため、そうした分散攻撃の弱点が露呈する場面はなかった。
 もう一つ、フランス側の司令官であるはずのデュメルビオンの影の薄さも目立つ。だが遠征軍を指揮したマセナが特に大活躍したという印象もあまりない。個別の縦隊を率いた個々の将軍や士官たちが、てんでんばらばらに戦ったところ、全体としてはフランス軍が押し込むのに成功した格好。オスコットの戦いなどでも司令官の役割が限定的に見えるが、これまた18世紀的な戦争では珍しくなかったと考えられる。
 それにしても結局のところ、フランス側の勝因はジェノヴァ領の中立侵犯を決断した点にほとんど由来していたようだ。中立領を通ったからこそ連合軍の準備不足を突くことができ、主導権を握り続けられた。時間をかけて兵を集め陣地を強化することができなかった連合軍にとっては、ジェノヴァ領をフランス軍が通ってきた時点で勝ち目はなくなっていたのではなかろうか。だとすると勝利の最大の立役者は中立侵犯を容認した公安委員会なのかもしれない。

 さらに、この戦役についてセント=ヘレナのナポレオンが言っている点についても確認しておきたい。彼は「山岳部の戦争では攻撃側が常に不利」だと指摘し、「敵に陣地を離れて自らを攻撃させることを強いる」のが肝要だと主張している。逆に敵が守りを固めている地点については「そこを攻撃しないよう気をつけねばならない」というのが彼の考えだ。果たしてこの主張と、マリティーム=アルプスで1794年春に行なわれた戦役とは、きちんと平仄が合っているのだろうか。
 後者の「守りを固めている地点を攻撃しない」という部分は間違っていないように思う。最初に牽制のためフランス軍左翼や中央が行ったサオルジオ戦線への攻撃は、途中で進軍が止まるか、あるいは反撃にあってあっさり撃退された。フランス軍自身も1793年のように無理な正面攻撃を仕掛けようとはせず、山中での戦闘は準備の整っていない相手に向けられたものが大半だった。
 もちろん、そうした状況でもなお攻撃に失敗した例はある。4月27日、サオルジオ戦線の左翼稜線に向けて行われたフランス側の攻撃では、右翼の2個縦隊はどちらも連合軍に撃退された。準備期間が短い場合でも、地形の険しい山中ではやはり防御側が強いケースがある点を示していると言えよう。
 だが、ナポレオンが述べた主張のうち、「敵に陣地を離れて自らを攻撃させることを強いる」部分については、この戦役にそれらしい事例はほとんど見当たらない。オネーリャ公領はそもそもあまり山がちではないし、そこにいたピエモンテ軍はほとんど戦う余地もなく逃げ出した。タナロ峡谷でも連合軍は防衛線を敷くのが精いっぱいで、「攻撃を強いられる」というより必死に守っているだけだった。
 ニース伯領での戦闘も同じだ。サオルジオ戦線の側面でも、あるいはテンダ峠を巡る最後の戦いでも、基本的にはフランス軍が攻撃を行い、連合軍は拠点防御を試みるという流れがほとんどだった。もちろん限定的には連合軍が攻勢に出たこともある(サッカレロ山でフィオレラの縦隊に対して行われた迂回攻撃など)。だがそれよりも陣地にこもって抵抗する例の方が目立ったし、中にはそれでフランス軍を撃退した例もある(ボスコ山の戦闘)。迂回によって敵を陣地から引きはがすのには成功したが、「攻撃を強いる」のに成功したようには見えない。
 地理的に有利な場所から動こうとしなかった連合軍をそれでも追い払えたのは、むしろ戦役が連合軍の兵に及ぼした心理的な効果のためではなかろうか。連合軍、特にピエモンテの民兵はちょっとした戦闘ですぐに逃げ出しているし、正規兵にしても命令に従わずにさっさとピエモンテ領まで引き下がってしまった例が数多く指摘されている。防衛線を迂回され、背後に回られたと感じた時点で、サオルジオ戦線の連合軍はもうまともに戦えない状態になっていたように思える。
 セント=ヘレナでのナポレオンの発言は、もともとあまり信頼度が高いものではない。それでも山岳戦の原則といった部分については、何しろ実績ある将軍の発言だけに無視できないと思う人も多いだろう。実際、「ナポレオンの軍事格言」という書籍には、山岳戦に関する彼のこの発言が採録されている(p55)。でもそれがどの程度、事実に基づいているかについては、一応調べた方がいいんじゃないだろうか。
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