イタリア・1794年春 12

 1794年春のイタリア戦役続き。フランス軍がロイア上流で攻撃を再開する5月7日は、コッリ男爵が数日かけて注意深く準備した退却の実行日でもあった。ところがCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によると、オーストリア=サルディニア軍の士官たちは命令に従わず、兵たちは戦闘が始まるや否や散り散りになってしまったそうだ。
 パイア=イム=ホフ連隊は、ダルマーニュ将軍の兵が早朝、サン=ダルマッツォ方面から出撃し、ビオーニャ峡谷で交戦を始めたのを見るや否や、配置されていたスペジオ高地やヴェルゴ高地を早々に去りピエモンテ国境に近いペイラフィカ峠まで移動してしまった。そのため工兵大隊はもはや指示された通り稜線にたどり着くことができず、常に右側面を脅かされながら丘の途上まで後退した。
 中央でテンダへの主要街道を守っていた各中隊はルブリュンの前衛部隊を前にして逃げ出した。彼らは、テンダ下流の地雷を設置した橋をカバーするためテスタ=ディ=プリオを占拠しようとしていたオネーリャ連隊を混乱に陥れ、この部隊も結局は村に逃げ込んだ。ロイア右岸を苦労しながら進んだ共和国軍は、退却命令に従ってコレッタ=ディ=ブリガから来た部隊に続き、ボジーリャ峠から降りてきた縦隊を対岸から射撃した。ピジョン大佐の偵察隊に激しく追撃された彼らは可能な限り急いでテンダ橋にたどり着こうとした。この橋を見下ろす岩場にいたニース第2大隊がそこを去っていたため、彼らの退路はいつでも遮断されそうな状態にあった。幸運にも義勇兵の小さな分遣隊が数人のオーストリア兵とともに最後の大隊が通り過ぎるまでそこにとどまり、それから後衛となった。
 この混乱した集団がテンダの先まで行軍するのをカバーする必要もあった。コッリ将軍は、前日にテンダへ戻したピニェロル連隊の2個100人隊が配置されているカニョリーナ山(テンダ村のすぐ北)に、モンフェラート第2大隊も向かわせた。アリャン伯はテンダ城(ロイア右岸のサン=ソヴール教会と同じ稜線の末端付近にある)でオネーリャの工兵及びニース第2大隊を再編し、ニース第1大隊と擲弾兵第5大隊の増援を受けたうえで、カステロ=ディ=ミナ(テンダ城のある稜線の近くにある峡谷を遡った地点)まで進んだ。しかし稜線にたどり着く前に彼らはダルマーニュ将軍の散兵に迎撃された。パニックに陥ったピエモンテ軍の一部は斜面を経て道路にたどりついたが、残りは捕虜となった。
 デレラ将軍が朝のうちに向かっていたマドンナ=デ=ヴィエヴォラ(テンダよりも上流)まで退却したところで、彼らはようやく少しずつ部隊を再編し、デヴァーリャ山の斜面にそれらを配置した。フランス軍はヴィエヴォラの下流でロイアに流れ込んでいるコンセンテ峡谷を越えようとはせず、ロイア左岸ではクルトの森(クルト山の近くか)を占拠した。連合軍は抵抗するどころか山を越えてテンダ峠まで、一部はピエモンテ領のリモーネまで逃げ出した。クロゼッタ峠(ベルトラン山から伸びる稜線上にある)から来た王立擲弾兵連隊は攻撃側より先にタヴァン山(タヴァン峡谷上流の山か)に到着し、ラ=サ東方にある宿営地から来た守備隊の支援を得て敵をクルト山まで押し戻した。

 テンダ峠近くまで押し込まれたコッリ将軍は、オルティガ川とデレ=モルテ川の背後にピニェロルの2個100人隊が支援する義勇兵を残し、7日夕から翌朝にかけてアルプスの稜線を保持するための戦力配置を行った。ペイラフィカ峠には猟兵第1大隊、ピアンとパンディニの志願兵、ソスペロとムリネの民兵が残った。マルゲリア砦とモルゴンの森(砦の近くにある)の間にはパイア=イム=ホフ連隊とベルジオヨソ連隊、ピニェロルの2個100人隊が宿営した。擲弾兵第5大隊はラ=サ西方にある2つの峡谷の間に布陣し、民兵がそこを守った。その上にある道沿いにはニース連隊とモンフェラート第2大隊が配置された。峠自体はオーストリアの守備大隊とピニェロル大隊が守り、最後の曲がり角には4門の大砲が設置された。オネーリャ連隊はこれらの拠点の間に散らばっていた。
 最左翼にはトルトナ連隊、猟兵第2大隊、カナーレ猟銃兵がリオフレドの稜線からクニ山まで展開し、ボアイラ峠とデラ=ペルラ峠(ベッコ山とボアイラ峠の間)を守っていた。ベッコ山のすぐ下にはピエモンテ連隊が、ペピン山にはアスティ連隊の1個大隊が配置され、このグループと中央の部隊とをつなぎ、ロイア上流とフラモサ峡谷の接点となっていた。タヴァン山頂にはベルジオヨソの1個中隊及び王立擲弾兵の猟兵中隊がおり、後者の連隊のもう1個中隊と近衛隊の3個中隊が支援のため稜線上に並んでいた。フラモソラ山頂(今のタブルド砦)から東に延びる稜線の南端にはアスティ大隊がおり、王立擲弾兵の1個中隊がその右にいた。残るおよそ1000人の兵はなお雪に覆われていたベッコロッソ山の斜面麓にいた。共和国軍が8日に攻撃を集中したのは、このより接近しやすいエリアだった。
 リオフレド峡谷のピアで夜を過ごしたピジョン大佐は、フレッジャ峡谷(ペピン山南東)を遡ってアスティ大隊を追い払った。後者はフラモサ峡谷上流からピエモンテ側のカバナイラ峡谷を経てリモーネへと後退した。フレッジャ峡谷の反対側にいたピエモンテ連隊の2個大隊がペピン山頂に到着した時には遅すぎた。彼らは短い射撃戦の末にその地を捨て、自分の部隊に戻ってぺルラ峠を経てリモーネへと下がっていった。
 同時にルブリュン将軍は、正面6人の縦隊を組んで約2000人とともにクルト山から出撃した。午前10時頃にラゲマ峠に到着したこの縦隊は3つに分かれた。1つは右翼のアスティ大隊がいる方角へ向かい、中央は強力な散兵戦線を送り出し、タヴァンの拠点を正面と左側面から攻撃して自軍右翼をカバーした。左翼はタヴァンの右翼側を迂回すべくロッカ=カイロンへ到達した。
 包囲されそうになったピエモンテの守備隊は予備からの増援を受けたが、45分に及ぶ激しい戦いの後に圧倒的優勢な攻撃側に追い詰められ、カバナイラ峡谷の雪が積もった斜面を滑り降りて逃げ出した。一部は迂回してテンダ峠にたどり着いたが、多くはリモーネまで到達した。コッリ将軍はテンダ峠に駆け付け、これらモンフェラート第2大隊、義勇兵、ピニェロル連隊の2個100人隊、オネーリャ連隊の一部とかき集め、峠の東にある岩場に稜線と直角の戦列を4つ敷いてほんの1キロほど先にあるベッコロッソに野営している共和国軍に対抗しようとした。
 この部隊は、アルプスの稜線に並ぶ他の部隊の左翼をカバーする形となった。右翼はソランテ山にあり、擲弾兵第5大隊がそこを占拠した。さらに先、アビッソ山の下にはペイラフィカ峠の分遣隊が布陣した。彼らはダルマーニュ将軍に正面から攻撃され、さらにプンタ=デラ=パラ(おそらくジオーラ山)経由で背後も突かれて退却していた。一方、中央のフランス軍はラ=サの正面にあるつづら折りの道の下に展開するにとどめていた。
 どれほどこの陣地が強力であっても、フランス軍が容易にリモーネへ下って退路を断つことができるようになったため、この戦線はもはや維持不能だった。あまりに早い崩壊に直面しながらも、コッリ将軍は冷静さを保ち、キウザ侯爵に対してロッカヴィオーネからリモーネまで擲弾兵2個大隊とともに来援するよう命じ、さらに最前線の部隊に退却を命じた。霧を利用してこの退却は午前1時から始まった。右翼はアビッソ峡谷と旧テンダ街道沿いに、中央は主要街道を下り、ミレシモ伯が指揮する最左翼はヴァルモリナの小屋に午後10時に集まり、ぺルラ峠を経て5月9日の日の出1時間前にリモーネに着いた。
 軍はそこで大きく2つの等しい戦力集団に分かれ、一方はアルピオラ峠(リモーネ西側の稜線上)に、他方はアルメリナ峡谷(ヴァレッジャ川)右岸の高地に配置された。オーストリアの守備大隊はリモーネの南側出口に残り、義勇兵部隊とカナーレ猟銃兵、ピアンとパンディニの志願兵、そしてリモーネ南方の森と斜面に広がっている少数の民兵に支援されていた。これらの拠点はモレル峠(テンダ峠北方)まで進出してきたマッカール師団前衛部隊の散兵といくらかの射撃を交わしていた。
 翌日、フランス軍は動かなかった。コッリ男爵は兵をボルゴ=サン=ダルマッツォまで行軍させ、夕方4時にはそこに到着した。軽兵はヴェルナンテとロビランテにとどまり、擲弾兵第8及び第9大隊はヴェルメニャーナ川とジェッソ川が合流するロッカヴィオーネの宿営に戻った。ジェッソ峡谷はコッリ侯爵が守っていたが、アルプスの峠はガルニエ将軍が奪っていた。
 彼は8日、サン=マルタン=ヴェジュビーに戻って1500人の兵を集め、翌日午前3時にはそこを出発して8時にはマドンナ=フィネストラに着いた。1時間半の休息の後に彼は部隊を2つに分け、側面中隊と200人の偵察隊から成る左翼をグラ大尉が、右翼をモンロー准将が率いた。彼らは1時間以上、腰まで雪に埋まりながら進み、前日夕に200人の増援を受けていた峠の塹壕までピエモンテ軍を押し戻した。抵抗するピエモンテ軍に対しガルニエ将軍は大砲3門を小さな台地と峠の東に展開。左翼縦隊の兵は銃を担いで斜面を登り、峠への接近路の側面を守る士官と30人の兵がいる拠点を見下ろす場所に来た。それから右翼縦隊が突進して峠を奪った。戦闘は2時間続き、フランス軍は死者5人、負傷者6人を出した。ピエモンテ軍は7人が死亡し、12人が捕虜となった。
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