書評特集と翻訳と

 以前、Walter Scheidelが書いた書評を紹介した。GraeberとWengrowの著したThe Dawn of Everythingについて手厳しい評価をした文章だったが、最近になってこの本についてTurchin一党が編集しているネット学術誌Cliodynamicsに書評特集が掲載された。Scheidelの書評も改めて採録されている。なおこの特集の編集にあたったDaniel HoyerはWengrowにも寄稿を求めたものの断られたそうだ。TurchinによるとWengrowは「科学的議論の一般的な規範に従うつもりはなかった」という。
 Scheidelの書評が取り上げられている点からも、この特集がWengrowとGraeberの書物に対して批判的であることは想像がつく。通常、アカデミックな世界ではこうした批判を取り上げたメディアはそれに対する反論も載せるのが「規範」である。少なくとも以前はそうだったし、実際に反論するようメディア側から要請もしていたようだが、どうも最近はそうでもないらしい。死去したGraeberには反論の機会がないのだから、せめてWengrowは反論した方がいいと思うものの、残念ながらそうした論争を見ることは今回はできなかった。
 批判的と言っても書評を寄せたメンバーによって批判の度合いは違っている。Ian Morrisはかなり控えめな物腰での疑問点提示を中心にしているし、最後に出てくるGary FeinmanもGraeberとWengrowが「近代と西欧の台頭を自画自賛するような枠組みに挑戦している」点を評価している。少なくとも野心的な取り組みを進めた点は賞賛すべき、というスタンスだろうか。一方、Scheidelよりもさらに厳しい批判を浴びせているのがMichael E. Smith。彼によればGraeberとWengrowの仕事はそもそも学術のレベルに達していないそうだ。
 彼の書評Early Cities in The Dawn of Everything: Shoddy Scholarship in Support of Pedestrian Conclusionsの中でも、特にその点について厳しく指摘しているのがp7のScholary Mechanicsという項目。おそらく「学術的ペテン」という意味だろう。例えばある書評によれば、この本は「分岐の誤謬」と呼ばれる問題点、つまり選択肢は相互に排他的な2つの選択肢しかないという主張を持ち出したり、もしくはある結論を支持する論拠が乏しければその結論は誤りでなければならないといった議論を展開しているという。詭弁のガイドラインに出てきそうな主張を書籍内で展開しているわけだ。
 他にもScheidelも指摘していた藁人形論法、証拠の不在を当該現象が不在であることの証拠と見なすような主張、広く認められている結論をあたかもラディカルな新しいアイデアであるかのように表現する手法、反対の見解の否定、そして「空引用」が多々存在しているという。特に空引用、つまり問題となっている件についてのオリジナルなデータを全く含まない文献をソースとして引用する取り組みについては、p6でスミス自身の文章からの引用も含めて同書内にある具体例を指摘。この本が「何の実証的な支持材料も含まない」文献を単に「オーラをまとわせるため」だけに紹介していると批判している。そう、wikipediaよく見るアレだ。
 さらにSmithはこの本によく出てくる「信頼するに足るあらゆる理由がある」というフレーズが、実際には僅かな証拠しか提示できない際に使われているとも記している。そういえば、こちらで牽強付会ばかり書いていると批判した文章の中にも、何の論拠も示さずに「問題なく推測できる」と言い放った部分があったが、GraeberとWengrowも似たようなことをやっているらしい。またGraeberとWengrowの議論の進め方はポストモダンのやり方とも似ているようで、Smithはフーコーへの批判がそのままこの本に当てはまるとも述べている。
 そして、これまたScheidelと同じであるが、GraeberとWengrowが定量的分析を軽視している点もSmithは批判している。どうやらGraeberとWengrowは「もし世界史をジニ係数にまとめてしまうなら、間違いなく愚かしい事態になるだろう」と述べたうえで、その手のデータを完全に無視して議論を進めているようだ。これについてはMorrisも「ジニ係数を完全に無視するのはさらに愚かしい事態を招くのではないか」(Stop making sense, p13)とツッコミを入れている。Smithはさらに人文学者たち全体のデータ軽視の姿勢を「馬鹿げている」とまで書いている。
 そもそもGraeberとWengrowが自分たちの研究を最初に査読付きの文章として出していれば、こうした問題は避けられたのではないか、というのがSmithの結論。日本では社会学が似たような揶揄の対象になっているが、この本も「学術と論証の見掛け倒しなペテン」になっており、もっと真っ当な論理や証拠、議論が必要だとSmithは書いている。
 ここまで手厳しいことを書いている書評はそこまで多くはないと思うが、Smithが危機感すら感じさせるような書き方をした一因は、おそらくこの本が英語圏でかなり歓迎されている点にあるのだろう。Hoyerによれば彼らの本はダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」、ピンカーの「暴力の人類史」、ハラリの「サピエンス全史」などと並ぶほど話題になっているのだそうだ(Introduction to Special Issue: Leading Scholars of the Past Comment on Dawn of Everything)。Morrisもダイアモンドとハラリの本を引き合いに出している。正直、ダイアモンドとピンカーの本はまだしも、ハラリに続いてこの本が話題になるというあたり、英語圏における人気本の質が低下しているのではないかと疑いたくなるところだ。
 まるで19世紀の帝国主義時代に先祖返りしたかのようなロシアの現状や、各国での陰謀論の隆盛の背景には、ベルカーブの左側にいる人々の抵抗が存在するのではないかと前に書いたことがある。もしGraeberとWengrowの本の中身がSmithの言う通りの内容であり、かつその本が広く英語圏で受け入れられているのだとしたら、その背景にも定量的に物事を見ることができない「ベルカーブの右側についていけない人々」がいるんじゃなかろうか。そんなことを思いたくなる書評だった。

 一方でデータと数式まみれの定量的歴史書であるPeter TurchinのAges of Discordの邦訳が、今年の秋ごろに出版されそうだ。Turchinの邦訳本としてはHistorical Dynamics以来。どうも最近は彼の本が英語以外の各言語に翻訳されることが多いようで、例えば先日はポーランド語のWar and Peace and Warが出版されたことについてblogで紹介していた
 出版予告に合わせ、邦訳本巻末に載せる予定の解説文も公開されている。思えば私が最初にTurchinの存在を知ったのは、この解説を書いている高知工科大学教授の「帝国興亡方程式と歴史の枢軸」という文章に出会ったのが最初のきっかけだった、はず? なぜか文章が消えて図版だけ残っているけど。それはともかく、解説文の方は非常にシンプルにTurchinの取り組みを紹介しているので、色々と参考になるだろう。
 面白かったのはTurchinの発言について「一見すると政治的立ち位置は分裂的」と指摘しているところ。右翼的にも左翼的にも見えるというあたり、逆に言うと我々がいつまでも「右か左か」という偏った見方に囚われている点を指摘しているとも言える。例えばTurchinのエリート過剰生産の議論から見れば、左右の両極はどちらもエリート志望者が集まる「対抗エリートの梁山泊」みたいなものであり、どちらも社会政治的不安定性をもたらす過激派の巣窟と位置づけることも可能。同じ穴の狢でしかない存在を左右で切り分けるのは、むしろ世界を理解する上では邪魔な視点だろう。
 なお邦訳には「日本語版まえがき、2020年のアメリカの騒乱を受けての事後検証論文もおまけとして付く予定」だそうだ。前者はTurchin自身が書いてくれるものと期待している。後者はこちらで紹介した論文かもしれないが、日本語でTurchinの論文が読めるのであればこれはなかなか珍しい事態なので、楽しみにしておきたい。
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