イタリア・1794年春 10

 1794年春のイタリア戦役続き。サオルジオ戦線の背後を突くためフランス軍が行った攻撃のうち、左翼の2個縦隊(ブリュレ将軍とアメル将軍)についてCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796の記述を見てみよう。午前5時、この2個縦隊はマルタ山から出撃した。
 ブリュレ縦隊はマッパに布陣し、4ポンド砲1門を配置したうえで散兵をサンソンの森に押し出し、ピエモンテ軍を少しずつ押し込んだ。アメル縦隊はマッパの森に戦線を延ばし、そこを守っていた猟兵、義勇兵、及びピニェロル第1大隊はすぐそこを放棄。堡塁の背後に集結するように命じられていたにも関わらず、その一部はド=ラフェルを経て、一部はプレアを経てラ=ブリガまで退却してしまった。
 既にマッパからの砲撃に晒されていたベルジオヨソの1個ディヴィジョンは、側面をフランス軍の散兵に突かれた。一部は堡塁に逃げ込み、残りは予備と合流したが、包囲されることを恐れた彼らはピニェロル第2大隊のところまで後退し、リネール台地へと向かった。アメル将軍はすぐ堡塁に襲い掛かり、短いが激しい白兵戦の末にそこを奪った。そこから彼はいくつかの分遣隊をリネールの先端まで送り出し、ブリュレ縦隊の行軍をカバーした。ブリュレ将軍はマセナの命令に従い、ボスコ山から500メートルほどの地点を発してコラ=アルデンテへと向かった。
 ボスコ山の山頂は接近不能か接近が難しい岩場で構成されていた。共和国軍のいる側からは1人ずつしか登ることができず、山頂部はその端に沿って芝で覆われた胸壁で守られており、敵に足がかりを与えないようになっていた。山岳砲1門が配置されていたが、その足元は見ることも撃つこともできず、側面の塹壕にある数門の大砲のみがいくらか前方を射撃できた。コラ=アルデンテの守備隊から派出された哨戒線はフランス軍の接近に伴って後退した。ベルギャルドはバレーニョ少佐に堡塁の指揮を任せ、ピエモンテの1個中隊到着によってそこの守備隊は296人にまで増えていた。
 ブリュレはコラ=アルデンテ山の山頂に砲列を敷き、その背後に兵を集めた。午後2時、彼は1000人の先頭に立って出撃し、ボスコ山の堡塁を正面と両側面から攻撃した。ピエモンテ兵の射撃にもかかわらずフランス軍の3部隊は岩場の足元にある堡塁の死角までたどり着いた。だが胸壁まで登ることができたのは中央の擲弾兵のみだった。彼らは降り注ぐ石に叩き落とされ、他の攻撃部隊とともに出発地点まで退却を強いられた。地表には多くの死者と負傷者が横たわっていたという。
 夕刻になってこの強力な拠点に対する攻撃を再開するのは無駄だと判断したマセナは、右翼の移動によって敵に退却を決断させられると期待して、左翼についてはサンソンの森に押し出した散兵を使って2個縦隊を連結させるだけで満足した。マドンナ=デ=フォンタン(ノートル・ダム=デ・フォンテーヌ)経由のコラ=アルデンテとラ=ブリガの連絡線を、遮断はできなくとも邪魔することはできると彼は想定していた。
 ピエモンテ側ではアスティ第2大隊とベルジオヨソ連隊の残りが既にモリニョル(ラ=ブリガ北東)を経てクロゼッタ峠(モリニョル北方)へと戻っていた。コラ=アルデンテ付近に展開していた民兵たちは既に逃げ出しており、正規兵たちは砲兵を連れたボスコ山守備隊に守られながら翌日夜明けにはサッカレロ山まで後退した。彼らは誰にも邪魔されることなく、コラ=ロッサまでの稜線を占拠した。
 ラ=ブリガ正面では27日の午前中にプレア宿営地でアガン伯がかき集め、コッリ将軍の存在によって勇気づけられた600人から700人の兵が、日没までそこを維持したが、その後で彼らは散り散りになった。もはやラ=ブリガを守るのは不可能であり、あらゆる部隊が士気阻喪と混乱に見舞われていた。それでもサオルジオ戦線の中央と右翼が秩序ある退却をするための時間を稼ぐべく、コッリはリオセコ峡谷とロイア峡谷の間に位置している、西側の接近が困難な丘を占拠することで、28日に日中にサン=ダルマッツォをカバーしようと試みた。
 猟兵第1大隊はアルペーゼ山頂に向かい、それを支援したベルジオヨソの1個ディヴィジョンは、ジェラオネ峠を経てリオレ山(場所は不明)へと後退した。この山とラ=ブリガ近くのサン=サルバトーレ教会の間にはナヴァ堡塁の生き残りが配置された。工兵中隊がリヴェンツァ川の道と橋を守り、右岸にはまずピニェロル第1大隊が、続いてトルトナ連隊の1個中隊が配置されてボジーリャ峠(ラ=ブリガ北方)への道を塞ぎ、最後にラーデル山の斜面に配置された義勇兵が、ベルジオヨソのおよそ20人の兵とモリニョルを占拠する兵をつないだ。サオルジオから呼ばれたオーストリア守備連隊の1個ディヴィジョンはコレッタ=ディ=ブリガに布陣した。
 薄いコルドンではあったが、再編を必要としていたフランス軍を牽制するには十分だった。プレアまで来たアメル将軍は前衛部隊をトロノ山へと押し出し、彼らは午前7時からリオセコ峡谷で射撃戦を始めた。フランソワ将軍はコラ=アルデンテを占拠するよう命令を受け、マセナは他の縦隊とともにマルタ山から道に沿ってリオセコ左岸の稜線に達した。28日午後には分遣隊の1つがデュラスカ山を奪い、そこで休んだ後に午後5時に突如として攻撃を始めた。15分もするとすべてのピエモンテ兵は敗走を始め、リヴェンツァ川とロイア河までしか追撃されなかったにも関わらず、テンダ村まで壊走した。
 マセナは司令官のデュメルビオンにいくつも報告を送っていたが、彼からの返答がなかったため、自らの左翼で何が起きているかを知らないまま全面的な交戦を行うのは適切でないと考えた。29日早朝、彼は第117半旅団とともにリュゴ峠を経てロケロッセ山に向かい、そこからサオルジオへと下った。彼はそこで、27日から始まったフランス軍右翼による攻撃を支援するための必要な策を講じるべくロイア峡谷を訪れていた司令官及び派遣議員と出会った。

 この27日の早朝、ビザネ将軍はオーティオン南西にあるダルジャン宿営地まで散兵を送りだし、またピエモンテ軍4個中隊が占拠しオーティオンの塹壕にいる1200人から1500人に支援されているテュエイ峠を砲撃するために、マンテガス山頂に大砲1門を設置した。ムリネを出発した縦隊はアルプ峡谷の右斜面を少しずつ登り、ヴェンタブレンを出発した分遣隊はカナーレ猟銃兵とモンフェラート連隊1個大隊に守られたパルペラ山へ向けて移動した。
 これらの兵は主にマルゲリアの森に散開し、第5擲弾兵大隊の志願兵及びオーストリア兵から支援を受けているコーヴァン大尉の民兵と激しい射撃戦を行った。ミルフルシュ堡塁にある2つの曲射砲から常に牽制砲撃を受けていた彼らに、前年のような無駄で致命的な攻撃を再開するつもりはなく、共和国軍は午後2時には後退した。
 ロイア左岸ではルブリュン将軍が擲弾兵5個中隊及び100人の兵の増援を受けたものの、彼はいまだに砲兵を配備し1000人の兵で守られているベンドーラ川の戦線に対して全面的な交戦に入るのは適切でないと考えていた。彼は渡河点を調べるにとどめた。
 一方右岸ではマッカールがブレイユとラ=ジアンドーラ間に1100人を集め、彼らは最初の合図でコラ=バッサを攻撃する準備を整えていた。その左翼ではダルマーニュ将軍がダニョン峠とデア峠からラ=マリアの小屋に向けて2つの縦隊を進め、そこを素早く奪った。そこにいた弱体な分遣隊はチオット宿営地(マルト砦がある標高1151メートルの丘の南西にある標高1032メートルの稜線根本)の守備隊がいたロスターニョの小屋に下がり、そこからさらにマルト堡塁に守られるところまで後退した。
 だがマセナが戦線に加わると確認できる前に強力な陣地を相手に兵を危険に晒したくなかったデュメルビオンも、ダルマーニュ将軍を呼び戻していた。ラ=ブリガ方面におけるこの将軍の成功がもたらした余波は、その報告がイタリア方面軍司令部に届く前に発生した。
 ナヴァ堡塁の奪取直後、オーストリア=サルディニア軍の指揮官は4月27日から28日の夜間にかけて防衛拠点の武装を解き、山地のものを除いて大砲をテンダまで輸送するよう命じた。山地の大砲については翌日夜の退却時にサオルジオ砦に守られながら兵たちが一緒に運んだ。28日朝、クニェ砲台から大砲1門が引き上げているのを見た第56半旅団の偵察部隊が、ベンドーラの支流でパンディニ志願兵との間で激しい射撃戦を繰り広げた。
 知らせを受けたルブリュン将軍はムラトン峠から縦隊を下らせ、彼らは苦労もなくカスト上流でベンドーラを渡った。コレッタ=ディ=ブリガへのオーストリア兵派出と、砲兵の輸送による兵の疲労で弱体化していたこの戦線の防衛部隊は、サオルジオを経てテンダまで引き下がった。そのため側面を突かれたパンディニ志願兵たちもまた退却を強いられ、道路を経て午後4時にはサン=ダルマッツォに到着した。バラーニュの岩場を守っていた分遣隊と民兵は捕虜になった。ジェラオネをマセナが占拠していたため、ダナンの拠点は夜の間にペネ(ペーヴェ)峡谷を経てフォンタンへと逃げることでかろうじて同じ運命を回避した。
 サオルジオ総督のサン=タムール男爵は、弱体な守備隊があらゆる方向から見下ろされている城で抵抗できるとは思わず、部下たちの助言やコッリ男爵からの公式命令に従わず、自らも退却を決めた。夕刻、ルブリュン将軍は放棄された要塞を占拠し、マッカール師団の兵と合流した。
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