1794年春のイタリア戦役続き。
Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796 によると、ピエモンテ軍が防衛線を固めていた4月22日、ガレッシオ方面から踵を返したマセナが、ブリュレ将軍とともにモリニに到着した。ラ=ブリガの生まれでこの地について詳しいリュスカ率いる3個工兵中隊も来た。彼は翌日テナルダに向かい、そこから200人の兵を率いてマルタ山まで偵察に押し出した。最初はピエモンテの偵察隊を押し戻したが、堡塁の守備隊から引き抜かれた増援の到着によりポルタ=ベルトラナまで押し返された。マルタ山には100人のピエモンテ兵がとどまった。ナヴァの堡塁にはトルトナ第2大隊と義勇兵が野営し、ピニェロル連隊はリネール高地の先端まで前進した。
この出来事自体はさして重要ではなかったが、フランス軍がマルタ山から北西に流れるリオセコ峡谷、西に流れるグロア峡谷、そして両者に挟まれるジェラオネの尾根を使い、サオルジオとラ=ブリガの双方を迂回することに関心を抱いていることが分かった。これに対応するためラディカティ大佐は増援を受け取り、この地に塹壕を築く必要があった。連絡の困難さと兵の疲労のため25日の夜明までこの命令は実行されなかった。コラ=アルデンテの稜線から来た猟兵第1大隊が堡塁の左翼に布陣し、ピニェロル連隊、トルトナ第2大隊、そして義勇兵がチェリアナ山からマルタ山の間にあるテナルダ道に戦線を敷いた。さらに山の南斜面にいる200人の労働者を守るために守備隊はそこに展開した。
この広大な台地の防衛には少なくとも6個大隊が必要であったにも関わらず、ド=ヴァンはコッリ将軍が頼りにしていた最後の4個大隊についてその目的地を変更してしまった。コッリは仕方なくトルトナ第1大隊の100人隊を、既に作られていた塹壕に送った。さらに敵の攻撃が切迫しており、一方で予備も存在しないため、彼は兵たちに休息を命じるとともに退却に関する指示も送っておいた。そこでラディカティ大佐は午後3時にナヴァ堡塁とリネール及びプレアの宿営地に後退した。マルタ山の山頂には義勇兵50人と労働者を、ラ=クロワにはピニェロル連隊の猟兵中隊が残された。
目の前で実行されたこの退却を見たブリュレ将軍指揮下のフランス軍は、これを利用してテナルダの拠点から敵陣地に押し掛けた。彼らの部隊はタナロからの縦隊によって増援されており、優勢な敵に襲撃されたピニェロル連隊の猟兵は雪に覆われたリオセコ峡谷を通ってラ=ブリガへと逃げた。残りのピエモンテ兵はマルタと堡塁の間にあるマッパの高地まで引き下がった。このマッパの高地がどこにあるかはKrebsとMorisにも分からなかった(p49n3)ようだが、彼らはリネール道とコラ=アルデンテ道の合流点ではないかと推測している。残念ながら当時の道筋が分からないので、この解釈が正しいかどうかは不明だ。
ピエモンテ兵はここで踏みとどまった。まず義勇兵が、それから急いで戻ってきた他の大隊が増援として加わり、最後には堡塁に持ち込まれたばかりの大砲4門も砲撃を浴びせ、激しく執拗な戦いを夕方まで支えた。夜の間、両軍は互いにその位置にとどまっていた。ピエモンテ軍にとってはフランス軍がマルタ山の足場を固める前に彼らを追い払うことが肝要だった。
命令を受けたベルギャルド侯爵はラディカティ大佐に近衛第2大隊とベルジオヨソ連隊の2個ディヴィジョン(おそらく4個中隊)をコラ=アルデンテから送り出した。うちベルジオヨソの1個ディヴィジョンはリオセコ峡谷左岸経由でラ=ブリガに向かう道をカバーし、かつ南方ダナン山の拠点を支援できるようにするため、ジェラオネ峠に差し向けられた。さらに陽動のため、彼は早朝にペレグリノ山(コラ=アルデンテ東方)のフランス分遣隊を奇襲し、彼らをトリオラへと退却させた。
しかし、マルタ山の正面にいたラディカティ大佐は、増援を受け取り、さらに命令も受けていたにもかかわらず、マルタへの攻撃は適切でないと判断して攻撃を手控えた。一方、フランス軍のフランソワ将軍は午前7時からサン=ミケーレ伯の弱体な部隊をロッカ=バルボネ(ペレグリノ山北方)へと押し戻し、自分たちの拠点を取り戻した。この日の戦闘はここでほぼ終わり、共和国軍は翌日に行なうことになっていた全面攻撃のための配置に残り時間を費やした。
当初からフランス軍にとって大きな目標の1つであったサオルジオ戦線を迂回するための攻撃は、5つの縦隊で行われ、それぞれがリネール高地からピネ山へと集まるように行動することになっていた。ピネ山はラ=ブリガの南東にあり、ラ=ブリガのすぐ西にはサオルジオとテンダをつなぐロイア峡谷が流れている。ラ=ブリガが脅かされれば、背後を奪われたくないピエモンテ軍はサオルジオ戦線を捨ててテンダ峠まで後退せざるを得ない、という理屈だ。
最右翼からは第99半旅団の第3大隊が午前1時にアロシア峡谷のメンダティカを発し、サン=ベルナルド峠を越えてタナレロの橋を渡り、そこで2つの分遣隊に分かれた。一方はチアッジェを占拠したうえで9時にグリマルディ男爵の塹壕を正面から攻撃し、他方はプンタ=ヴェントーザ(ヴェントーザ山)の雪に覆われた斜面を通って北方から回り込んだ。だが5時間の戦闘の後に彼らは撃退され、ヴァウラサナ峡谷まで追撃された。彼らはその左岸で再編したが、攻撃は失敗に終わった。
フィオレラが指揮する2つ目の縦隊は1500人から1800人おり、メッツァルーナ峠を出発して夜間に雪をかき分けながら稜線を行軍した。彼らはモネガ山からフロンテ山へ進み、午前5時にそこに到着。後衛部隊を残し、悪天候で前日に近衛中隊が放棄したピエモンテ側の拠点を占拠した。敵の接近の合図を受けたベルギャルド侯爵はサント=ローズ中佐と王立擲弾兵4個中隊をサッカレロ山に送り、その地を支援しようとした。これら600人のうち大半は張り出し部の正面、前日に運び込まれ稜線にある塹壕の両端に支援された3ポンド砲の左右に並んだ。1個中隊は戦線側面を守るため右翼正面にある小さな岩場に配置された。そしてサント=ローズはドラムを鳴らしながら弱体な志願兵部隊の先頭に立って共和国軍とぶつかったが、数的優勢を前に素早く押し戻された。
フランス軍は2つの縦隊を組んで雪に覆われた山地をサッカレロ山へと真っすぐに進んだ。しかしピエモンテ軍の狙いをつけた射撃と砲撃に晒され、小規模な予備志願兵の反撃によって退却を強いられた。フィオレラは部隊を再編し、正面で射撃戦を続けながら、2つの分遣隊を両側面に送り出した。1つはフロンテ山からサッカレロへ至る稜線へ、もう1つはタナレロ山へと向けて移動した。この記述から、フィオレラがサッカレロ山の北東側の斜面から攻撃していたことが分かる。しかしタナレロ山への攻撃は、コラ=アルデンテからタイミングよく送られた王立擲弾兵の100人隊によって撃退された。それでもフランス軍は小さな岩場を確保し、最後の攻撃を行なおうとしていた。
ベルギャルド大佐はサッカレロ山の防衛隊を助けるだけでなく、襲撃側の側面を突いて彼らを打ち破る計画を立てた。彼はサン=ミケーレ伯に対し大隊を率いてサッカレロ山の東にあるガルレンダ峠に向かうよう命じた。これに対しフランス軍は、峠の南方にあるペレグリノ山の戦力を指揮していたフランソワ将軍がマセナの命令にもかかわらずそれを動かそうとしなかったため、目の前で行われた敵の大胆な機動を防げなかった。フィオレラが攻撃を再開しようとした時、彼の兵の多くは左の背後から射撃を受けることになった。夜間の行軍と長い戦闘で疲れていた彼らは打ち破られ、混乱してサン=ベルナルド峠へと逃げ出した。一方、小さな岩場を確保していたフランス軍はこの攻撃を食い止め、一方でフロンテ山からガルレンダへと移動してきた後衛部隊、及びフランソワ将軍が送り出した追撃部隊が、サン=ミケーレの部隊を脅かした。彼は兵を率いて岩場を下り、コラ=アルデンテまでたどり着くことができた。ロッカ=バルボネにいた部隊もそこに呼び戻された。
右翼の2個縦隊の攻撃が失敗に終わり、また中央縦隊(フランソワ将軍)が無為にとどまっていたおかげで、オーストリア=サルディニア軍は完全な惨劇に陥ることは避けられた。だがサッカレロ山付近における戦闘長期化により、ピエモンテ軍は新たな増援をナヴァの堡塁に送ることを妨げられた。この事態は残るフランス軍左翼2個縦隊の作戦を容易にした。
26日から27日にかけての夜間、ラディカティ大佐が自身の持ち場に抱えていた兵力は1700人から1800人だった。うち近衛大隊は2門の大砲と6門のスピンガルダ(
小型の大砲 )で武装した塹壕を占拠しており、正面と左翼、マッパの森とサンソンの森の間にある草の斜面もまた、デスタ=デラ=ナヴァとコラ=アルデンテをつなぐ稜線上に位置していたトルトナ大隊の射界に入っていた。右翼の深い森には義勇兵と猟兵が散開しており、ピニェロル第1大隊がそれを支援していた。側面はベルジオヨソの1ディヴィジョンが守り、その背後には200人が予備として配置された。最後にフロリアル=デラフェル(ド=ラフェル峠付近?)にいたピニェロル第2大隊が、前日コラ=アルデンテから来た工兵中隊によって建造されたピネ山の塹壕と、リネールの塹壕陣地をつないだ。
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