橋頭堡と政治

 ドンバス包囲のための突破を試みているのではないかと思われるイジューム付近でもロシア軍は一向に前進できず、逆にウクライナ軍の反撃を受けている。直接攻撃を諦め包囲に切り替えたと言われているマリウポリでも、ロシア軍はその舌の根も乾かぬうちに再び地上からアゾフスタル製鉄所を攻撃し始めた。どうやら包囲だけでは5月9日までにマリウポリを落とすことはできないと判断したロシア軍指揮官が、政治日程に間に合わせるために性急な攻撃に踏み切ったのだそうだ。
 他にもロシア軍はモルドバで不法占拠しているトランスニストリアで偽旗作戦を実行しているという。ただこれに合わせて現地の親ロシア派がウクライナ戦争に加わる可能性は少ないようで、要するに相変わらずいろいろ策謀している割に成果が一向に上がらない状況が続いているようだ。劣化ツィタデレ感がいよいよ強まっている。
 それにしてもヘルソンの橋頭堡へのこだわり、見ていて思い出すのは半島戦争初期に大敗北を喫したデュポンの事例だ。彼がより機動防御をやりやすいバイレンではなく橋頭堡のあるアンドゥハルに司令部を置いたのは、マドリードの司令部からそうした命令を受けていたため。この橋頭堡からいずれは改めて出撃し、コルドバへと再度前進することを司令部は想定しており、その目的のために「アンドゥハルの陣地を保持」しようとしていたという。ドニプロ河の対岸にあるヘルソンにこだわっているロシア軍と、状況はとても似ている。
 デュポンの失敗は究極的には事態を楽観視していたナポレオンに責任があった。マドリードにいたサヴァリーも無実ではないが、少なくとも彼はデュポンが危険な状態にあることを察知してナポレオンの命令に抵抗していた。現下のロシア軍現地指揮官がヘルソンにこだわる危険性についてどう認識しているかは分からないが、少なくともロシア中央が1808年時点のナポレオンと同じくらい(もしくはそれ以上の)失敗をしている可能性はある。マリウポリでの戦闘であっさり手のひらを返そうとしている点も含め、ロシア中央が戦況を把握できてないのではないかとの懸念が浮かんでくる状態だ。
 そもそもロシア軍にとってドンバスは最後の攻勢となり、以後は戦力枯渇によって攻撃には出られなくなるのではないか、と指摘する専門家もいる。実はこの専門家、以前からロシア軍の能力を高く評価していたようで、名指しこそしていないがそれを揶揄するようなツイートもネット上では見うけられる。そういう人物がロシア軍の攻勢限界を指摘したとあって、日本のマスコミのツイートでもこの話が紹介されている。ロシアのBTGが80個に対してウクライナ軍は45~75個大隊規模の戦力があるため、ロシアの攻勢には無理があると見る向きもある。戦力不足分の穴埋めになるはずの傭兵部隊も役に立っていないようだ。
 別の専門家(オープンソースの情報をやたらとたくさん紹介している)も、ロシア軍の消耗の影響が大きい点を指摘。ドンバスの戦闘で彼らは限定的な戦果しか得られないだろうとの見方を示している。そもそもロシア軍は精鋭部隊の9割を開戦冒頭で失っていたそうであり、また既にミサイルの7割も使っているそうだ。要するに専門家たちもロシアの残念な戦いぶりをほぼ認めているようで、「野球ファンの気持ちを軍オタが理解しつつある」だの、俺に監督させろだの、ロシア軍が目の前で「突然泥緑色で不定形の何かになる」という諸星大二郎的展開を味わっているだのと言った感想も出てきている。
 英国防省もドンバスにおけるロシアには目立った進展がなく、ロシアが遺族への補償を文官ではなく軍に取り仕切らせることで死傷者数をごまかそうとしている、と指摘している。そして米国防長官も、ウクライナは適切な装備があれば勝利を収められると明言するようになっている。各国当局や専門家が現状、ロシア軍の能力不足を指摘しているこの段階において、なお政治的な理由からヘルソンにこだわるのは、かつてナポレオンがアンドゥハルにこだわった結果としてデュポンの大軍をまとめて失うに至ったのと同じ事態を招きかねないのではなかろうか。

 不手際をひたすら繰り返している感のあるロシア軍に対し、ウクライナ側は絶好調に見える。ロシア側ではブリャンスクの貯油施設が炎上する事件が発生したのだが、当初はロシア側の事故か、ウクライナの攻撃だとしてもミサイルを使ったものではないかとの見方が多かった。ところが後になってウクライナ軍のバイラクタルTB2が攻撃を成功させた(そして帰路で撃墜された)との情報が出てきた。ブリャンスクはウクライナの国境から100キロも離れた場所にあるそうで、国境近くにあったベルゴロドへの攻撃どころではない驚くべき成果をあげている。もちろんこれまた偽旗作戦かもしれないのだが。
 加えてロシア国内で事故が続発しており、反体制派による破壊工作が激化しているのではとの見方も出ている。以前からそうした行動を取っていると見られていたのがベラルーシで、鉄道員たちがロシアの鉄道設備破壊やハッキング(ロシアの鉄道はWindows XPを使っている)にいそしんでいるという。鉄道はロシア軍の兵站にとって重要なだけに、その影響は大きそうだ。もちろん破壊工作なのか単なる事故なのか分からない面もあるし、そもそも報道が偏っているだけで実際はそれほど多くないことも考えられるため、慎重に見る必要はあるだろう。
 それでもインフラへの攻撃は軍事だけでなく経済面にも影響するため、中長期的に見て国民へのダメージが大きくなる恐れがある。足元で話題になっているのが、原材料費・輸送費の高騰と設備の整備不能によるパンの供給不足懸念。砂糖についても、甜菜の生産能力は高いがその種子は西側からの輸入である点は既に指摘していたと思う。食糧不足なら本来は政府として対策を打たねばならないのだが、軍隊があの有様となっている国で計画的な食糧配給など可能だろうか。第1次大戦中のドイツを襲った「カブラの冬」では多くの餓死者が出たそうだが、ロシアでも同じ問題が早いタイミングで発生するとの見方もある。それにロシアは経済データを公開しなくなっているそうで、既に制裁が効き始めているのかもしれない。
 軍も経済もろくに機能していないのが事実だとして、その背景にある理由としてはこちらのツイートが重要な点を指摘していると思う。ロシアの権力者が一種の愚民政策を取っているのは、それが自分たちの利益につながると思っているからだろうが、実際には複雑な社会を動かせる人材の育成や仕組みの構築をさぼっているに過ぎない。以前にアボカド経済のところでも書いたが、そもそも権力者たち自身も一次産品から収奪するくらいしか能力がない可能性もある。つまりロシアは権力者も大衆も含め、高い限界利益を生み出す複雑な社会を動かす術を知らないように見える。そしてそうした欠点は、社会が外部との紛争に晒された時に如実に現れる。現代の世界で生き延びるだけの複雑な社会を構築・運営できなかった残念な国家、それがロシアなのではなかろうか。

 最後に今回のネタ。ブリテン飯
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