イタリア・1794年春 8

 1794年春のイタリア戦役続き。Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によると、4月8日から9日にかけての夜にテンダに到着したコッリ将軍は、疲労困憊しながらも様々な報告に目を通し、デレラが与えた命令を改めて認めだした。モーランディ大尉は午前7時、250人の志願兵の先頭に立ってラ=ブリガを発し、テナルダへ向かった。嵐と霧に助けられた彼らは第118半旅団の分遣隊を奇襲し、その大半は執拗な抵抗の末に戦死した。しかし悪天候のためにピエモンテ軍はすぐヴァレッタ山の張り出し部を放棄せざるを得なくなり、フランス軍はそこを再占拠した。
 その間、コッリは700人をコラ=アルデンテに向かわせたが、共和国軍とは遭遇しなかった。大量の雪によってすぐ敵が攻撃することはないと判断した彼は4月10日、使える少数の戦力でラ=ブリガをカバーしダルジャントーと接触を確立することにした。テナルダへの道を支配するためピニェロル連隊がプレア(ラ=ブリガ南東の尾根)とピネの高地に布陣し、リネール峠の南部の丘にはこの連隊の猟兵中隊が向かい、さらに先には同名の高地に義勇兵が配置された。
 ベルジオヨソ連隊第2大隊はコラ=アルデンテの真ん中に布陣し、その右翼にはレアルドへの道を見張るため第1猟兵大隊がおり、ボスコ山(コラ=アルデンテ山の東にある山)に50人が守る拠点があった。左翼側にはサッカレロ山の斜面にアスティ大隊の100人隊が布陣。山腹をたどる道の途中にあるヴェジニャーナの小屋にはこの大隊の分遣隊がおり、さらにその道の先にあるロッカ=バルボネにいる100人隊と主力とをつなぐ役目を果たしていた。14日にはニース第1大隊が民兵と共にタナレロ峠の前面にあるチアッジェの集落に宿営した。
 ピエモンテから相次いで到着した大隊のおかげでこれらの拠点全てに素早く増援することができ、また敵が無為にとどまっていることもあって、コッリ将軍はすぐにでも攻勢に出られると期待していた。ダルジャントーと協力してレッツォ方面に向かうか、あるいはタッジャとドルチェアクアを隔てる山地に向かって重要な場所であるサン=ジョヴァンニ=デル=プラティ(ランガン峠の南東)を奪うかといった選択肢があった。また彼は東はベルトラン山から西はベルヴェデーレに至る防衛線を注意深く視察し、防衛線の強化と敵の偵察を進めた。
 ヴェジュビー峡谷ではコッリ侯爵が、フィネストラ峠が通行可能になるのを確認しつつ、4月14日と15日にユーテルとフィガレに偵察隊を押し出し、17日にはこの地を攻撃すらした。だがこの方面のフランス軍は消えるどころかヴァール峡谷とティネー下流ではむしろ増加しており、彼は退却を余儀なくされた。オーティオンの陣地では4月9~11日に激しい嵐が起き、ピエモンテ軍のテントは全て引き裂かれた。リュジェ(ラウス峠西方)とヴィレットにいた前衛部隊は後退を強いられ、共和国軍もカルメットからルセラムへ、ヴェンタブレンからベウレへと引き下がった。
 13日以降、彼らは元の陣地へと戻り始めた。ヴェンタブレンの陣地は15日にラ=マリアの小屋にいた猟兵=カラビニエに脅かされ、17日にはオーティオンの指揮官であるカサノヴァ大佐から強力な攻撃を受けた。モンフェラート第2大隊の100人隊が塹壕の麓まで前進して1時間にわたって射撃戦を行い、一方でソスペロとコーヴァンの民兵はアルプ峡谷を通って敵の背後を奪おうとした。しかし彼らはムリネの守備隊に阻まれ、ベウレ宿営地を指揮していたダルマーニュ将軍は、ピエモンテ軍を押し戻すための増援を送る時間があった。
 ロイア峡谷では4月10日からコラ=バッサ山の部隊がガンからラ=ジアンドーラへと下ったが、左岸に並んだフランス軍の集中的な射撃に対して持ちこたえることはできなかった。彼らは13日から15日にかけても同じように襲来したが、同じように失敗に終わった。ダニョン峠(ロイア右岸)、ムラトン峠、テナルダ道に対して行われた他の攻撃も失敗。14日にはフランソワ将軍がロッカ=バルボネの100人隊を一時的に追い払った後で、この陣地の南方にあるペレグリノ山に100人の部隊を布陣させた。そして16日にはピエヴェ=ディ=テコからメンダティカへ送られた第99半旅団の大隊によって(メンダティカとタナレロ峠の間にある)サン=ベルナルド峠まで押し込まれた偵察隊を前に、ニース第2大隊はチアッジェを放棄した。
 これらの小競り合いによって敵があらゆる方面に大挙して存在していることに気づいたコッリ将軍は、使える全ての部隊を集めないまま攻勢に出ることを躊躇した。そして18日朝、彼はダルジャントー将軍の退却を知った。この予想外の出来事によって左翼が完全に暴露されてしまったため、コッリはピエモンテから到着したトルトナ第1大隊に、急ぎテンダ峠近くのラ=サに宿営し、かつタナロ上流とロイアとの連絡路を監視すべくリオフレドに1個中隊を派出するよう命じた。彼らに続いていた猟兵第2大隊はリモーネ=ピエモンテにとどまり、ヴェルメナーニャ川を経てウペガやカルニーノ(ウペガ北方)に至る道に2個中隊を差し向けた。リモーネとヴェルナンテの民兵は実際にカルニーノまで送り出された。
 なお連絡線と、加えてフランス軍がオルメアやモンドヴィから出撃すれば素早く奪うことができるボルゴ=サン=ダルマッツォ(クネオ南西)の大規模な倉庫を守る必要があった。そのためコッリ将軍は、増援に向かっていた他の大隊に足を止め、さらにタナロの部隊と合流して彼らが再攻勢に出られるようにすることを提案した。だがこの計画はダルジャントーとド=ヴァンに反対され、後者はコッリに対して雪解けまではニース伯領にとどまり、それからテンダ峠に後退するよう行動を限定した。自ら使える資源だけに限定されたコッリは、約1万人の兵力でイタリア方面軍全軍の攻撃を支えねばならなくなり、彼は左翼の防衛線を中央や右翼同様に強化しようとした。
 ピエモンテ軍にとっては、ネルヴィア、ジリボンテ、タナロの各峡谷上流からラ=ブリガやテンダ下流にあるサン=ダルマッツォ(サン=ダルマ=ド=タンド)へと至る3つの道を押さえることが肝要だった。中央の拠点は9個大隊まで増援されたコラ=アルデンテにあり、左翼はサッカレロ山頂に拠り王立擲弾兵3個大隊が占拠していた。4つ目の大隊は前方に派出され、ロッカ=バルボネ守備隊の背後をカバーしていた。右翼はオーティオンから4月12日に来たモリエール大尉の工兵中隊が建造したボスコ山頂の堡塁に拠っており、近衛隊、ピエモンテ連隊、ベルジオヨソ連隊の各1個中隊に守られていた。民兵も含むこの地の3000人を指揮しているのは王立擲弾兵大佐であるベルギャルド侯爵で、彼は側面の拠点も必要なら支援することになっていた。
 左翼側、少佐であるグリマルディ男爵が指揮するタナレロ峠の拠点には、彼のニース第2大隊に加え、ピエモンテ連隊の2個中隊の増援も受けた。うち1個中隊は雪の状態が可能な時にはコラ=ロッサへ向かうことになっていた。ラ=ブリガ方面の斜面上、峠から45分の距離にあるチバイラ小屋の上には宿営地があり、タナロ側の斜面には塹壕に80人の兵がおり、また峠から伸びる稜線の先には民兵が占拠するチアッジェの小屋があった。
 ラ=ブリガから右翼のテナルダ方面に至る道筋ではリネール高地に塹壕が掘られていた。だが雪が消えると、ピニェロル連隊の大佐であるラディカティ伯の兵は、コラ=アルデンテと、サオルジオ東方にあるダナン峠やルゴ峠の拠点とをつなぐため、稜線上まで前進する必要が生じた。4月16日、義勇兵の分遣隊と民兵の偵察隊がデスタ=デラ=ナヴァの山頂に布陣した。そこへの接近路に築かれていた堡塁も22日には完成した。

 ピエモンテ軍が戦線を敷いた3つの峠は、今では仏伊国境となっている。標高はおよそ1700メートルから2200メートル近くと、決して低くはない。また4月といえばまだ雪が多く残っている春山の季節であり、おまけに18世紀末のこの時期は小氷期として知られている時期でもあった。これまでの記述でも常に悪天候だの雪だのという表現が出てきたが、そういう季節だったと考えていいだろう。
 それにしてもこの戦役を見ていると、両軍の非常に硬直的な戦い方が窺える。連合軍側はコッリとダルジャントーとの連携を拒否してコッリに単独での戦闘を強いており、そのためコッリはこの不便な山中に防衛線を築かざるを得なかった。フランス側ではマセナや派遣議員が提案したチェヴァ攻撃(タナロ河を下って攻撃することになるため、地形的な困難は少ない)を司令官が拒絶し、結果として連合軍の背後に回り込むために2000メートル級の稜線を越える進軍を強いられている。両軍とも好き好んで無駄な苦労をしているように見えるのだが、位置取り戦争全盛期の当時はそれに違和感を感じる軍人が少なかったのかもしれない。
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