ロシアPSI

 ウクライナ戦争ではロシアがマリウポリを掌握したと宣言しウクライナ軍が抵抗を続けている製鉄所への突入を中止した。一方、米大統領はマリウポリが陥落した証拠はないと指摘している。この戦争に関する発言の信頼度から考えても、米側の言うことの方が正しいのだろう。さらにそのマリウポリにはロシア軍が殺害した遺体を埋葬したと思われる集団墓地らしき痕跡が見つかっており、惨劇がなお続いている。
 さっさとロシアが退却して戦争が終わることを望んでいるが、そう簡単には終わらないだろう。こちらのツイートでは、ロシア国内向けにハッキングしている者たちに対して、「プーチンは殺人者」「ウクライナに栄光あれ」と言うよりも「プーチン政権が転覆されれば制裁は解除され財政人道的な支援がすぐに行われる」と言う方が効果的だとしている。だが本当にそれが一番効果的なのかと言われると、正直よく分からない。もしロシア人の価値観がいまだに19世紀のままなら、つまり夜警国家程度の機能しか国に期待せず、後は自力救済の世界に生きているのであれば、今の政権を倒すにはむしろロシア軍の敗北を加速させ、「こいつら弱い」と思わせる方が早そうにすら見える。
 そもそも前にも述べたが、今のロシアは一種の「不和の時代」の可能性がある。もしそうだとしたら、国内のエリート内競争の不満を外に逸らすために始めた戦争で負けるわけにはいかない、とプーチンが判断する確率が高まる。負けを認めると対抗エリートたちが今の体制を壊そうとする動きが強まる、と考えられるからだ。暴力で支配している者を排除したければ、その暴力が張り子の虎であることを見せつける方が手っ取り早く効果的であり、要するにロシア軍を徹底的に打ち負かすことこそがプーチンを排除する最短の道、のようにも見える。
 もちろんこの説が成り立つためには、今のロシアが「不和の時代」にあることを確認しなければならない。こちらでも指摘したが、ロシアの現状がどのくらい「不和の時代」の要件を満たしているかについては、もう少し定量的に調べる必要がある。というわけでこちらで紹介した「中国の政治ストレス指数(PSI)」の調査事例を参照しつつ、ロシアのPSIについても少し推測してみよう。

 まずは潜在大衆動員力(MMP)だ。Turchinがよく使っているのは平均労働賃金と1人当たりGDPを使った相対賃金であり、それを調べるうえでは例えばこちらこちらのデータを参照する方法がある。ただし計算を間違えそうな気もするので、ここは中国PSIと同じく所得格差を使うとしよう。これならWorld Inequality Databaseのロシアの項目で簡単に確認できる。
 ロシアでは1990年頃から急速な格差拡大が生じた。89年に所得の5.6%にとどまっていたトップ1%は96年には16.1%までシェアを増やし、さらにその後もシェアを伸ばして2007年には26.8%を占めるに至った。逆に下位50%は1990年の28.4%から96年には9.9%まで急減している。ただしこの流れはそこで打ち止め。その後、トップ1%のシェアが2020年にかけて21.0%まで下がったのに対し、ボトム50%は2008年の13.0%から16.9%とわずかながら上昇している。大衆の相対的ウェルビーイングはソ連崩壊前よりは大幅に低下したが、足元だけ見るなら微妙に上向き、といった感じだろう。MMPの計算に際しては下位50%の所得シェア逆数を使う。
 ロシアのユースバルジも目下のところは下がっている。2020年の人口ピラミッドを見ると、20代の占めるシェアは10.7%と10年前(17.1%)に比べると大幅に低下。逆にこの人口動態でよく戦争をやる気になったものだと呆れるくらいの水準だが、MMPという観点では所得シェアと同じ傾向だと言える。あと身長を見ると、ロシアでは1974年生まれの成人男性の平均身長が176.4センチに乗って以降、176.4センチ台がずっと続いているため、こちらはあまり気にする必要はないだろう。
 続いて計測の難しい潜在エリート動員力(EMP)だ。中国のように共産党員を数えるという方法は使えないため、Goldstoneが書籍の中で活用した学歴について調べてみると、驚愕の数字が出てきた。ロシアで高等教育を受ける比率は、2000年の55.8%から2019年には86.4%まで急上昇しているのだそうだ。ちょっとにわかには信じがたい数字なのだが、OECDの資料でもロシアの学歴の高さは韓国に次ぐ水準となっている。また3~5歳の幼児に対する教育も2005年の53%から2017年には83%まで増えているそうだ。
 どうやらロシアではとんでもない勢いで教育競争が激化しているらしい。前にも書いたが、高等教育の増加がエリート過剰生産につながるのではなく、エリート過剰生産が高等教育の増加をもたらす、というメカニズムをGoldstoneは想定している。従ってこのデータを信用するなら、ロシアの潜在エリート動員力はかなり高まっていると考えられる。前に指摘した通り、中間層の富が薄いロシアでは学歴エリートが財産という形の果実を十分に受けられる可能性が乏しいと思われ、それだけ不満を持つエリートが増えていてもおかしくない。実際に頭脳流出が加速しているとの指摘もある。というわけでEMPには高等教育を受ける比率を代理変数として使う。
 最後は政府財政難(SFD)だ。単純に政府の債務をGDP比で見ると、ソ連崩壊後に大幅に膨れ上がっていた債務は、2020年には17.8%まで減少しており、大きな改善を見せている。ただし期間を変えると違った風景も見えてくる。最も債務が少なかった2008年の6.5%から比べると、足元の債務はGDP比で2.7倍と大きく膨らんでいるわけで、大幅改善からの小幅悪化ということになる。
 トータルではどうなるか。以下のグラフがロシアのPSIとなる。

russiapsi.jpg

 見ての通り、実は足元のPSIは20世紀末頃に比べるとずっと少ない、という結論になる。何より大きいのはSFDで、こちらによると1999年にGDP比で92.1%まで達していた政府の負債が大きく減っているのは上に述べた通り。もしSFDがなければ足元のPSIはピークの2008年より少し下の水準で、かつ右肩上がりとなっており、SFDが1990年代並みに悪化すればPSIもそれだけ上がることになる。
 とはいえPSI全体を見る限り、ロシアにとっての危機は1990年代後半がピークで、2000年代の前半にはいったん収まったように見えるのは事実。2008年以降は再びPSIが上昇傾向を見せてはいるものの、水準的には1990年代よりずっと低いところにある。ただ、だからロシアは不和の時代ではないと言っていいのかというと、そこは判断が難しい。本気でPSIを調べたければせめて20世紀半ばまで遡る必要があるのだが、残念ながら旧ソ連時代のデータはなかなか簡単には見つからず、ソ連崩壊前との比較ができない。
 個人的に一番もっともらしく見えるのは、ロシアが今、解体トレンド(Disintegrative Secular Trends)の沈滞局面(Depression Phase)にあるのではないか、という仮説だ。ソ連崩壊とその後の経済混乱という危機局面は過ぎたかもしれないが、まだ持続的な成長が始まる統合トレンド(Integrative Secular Trends)まではたどり着いていない。中世イングランドの沈滞局面にばら戦争が起きたように、まだ混乱が続くタイミング、という解釈である。ロシアによるウクライナ侵攻は、沈滞局面でエリートたちの不満を外に向けるための取り組みであり、中世イングランドならヘンリー5世によるフランス侵攻に相当する。
 ロシアのPSIが再び急上昇する可能性もある。一時期よりPSIがよくなった最大の理由は、上にも書いた通りSFDの改善にあるのだが、ロシアの歳入のうち4割は石油・ガス関連の収入で賄われている。戦争で歳出が増え、経済制裁が強化されれば、一気にPSIが悪化する懸念はぬぐい切れない。西ローマのように再びの危機が到来する可能性も考えた方がいいだろう。
 ただし現時点でPSIが低いのが事実だとすれば、この戦争は簡単には終わらないと考えられる。厳しい経済制裁を課し、ロシア軍をすり減らしてSFDを悪化させようとするのは、正しいが時間がかかる手法というわけだ。やはり今回の戦争は長引くことを覚悟した方がよさそう。もちろん上記はあくまで私個人の解釈であり、そもそも上に取り上げたPSIの代理変数が適切かどうかも含め、実際にはもっときちんと調べた方がいいのは間違いないだろう。

 露メディアではまたもロシア側の損害らしきものが公開されその数がウクライナ側の発表と近いことが指摘されていた。死者がこの数だと負傷者を含めた損耗はロシア軍の3分の1に達しているとの見解も出てきたし、ロシア傭兵もかなりの損害を受けているようだ。沈んだ巡洋艦モスクワの死傷者も、伝えられている通りならかなり多すぎるそうで、OSINT勢が阪神ファンみたいになっているそうだ。
 ロシア国内ではプロパガンダが続いているが、見た目がアイアンスカイだのスターシップトゥルーパーズだの、言いたい放題言われている。一方で経済面では銀聯カード発行が停止され石油ガス機器業界から悲鳴が上がるなど、事態は悪化しているもよう。軍はものすごく古い電子機器を使っているうえに整備能力にも劣っており、そして軍需産業は制裁でお陀仏、との話も出ている。やはりロシア軍を叩き経済制裁を強化してSFDを悪化させるのが、戦争を終わらせる一番確実な道に見える。
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