フランソワ将軍は第118半旅団とオート=ザルプ第3大隊を指揮し、テナルダ、トリオラ、モリニに布陣。マルタ山とコラ=アルデンテを通じたラ=ブリガからの道を監視するとともに、ジリボンテ峡谷とアロシア峡谷に至る拠点に第46半旅団の13個中隊を展開させ、フロンテ山を経由して前者の部隊との連絡を確立した。ピーニャの兵站拠点がこれら6000人の兵に補給を行っており、そこを守る第100半旅団第3大隊は、ブッジョに分遣隊を置いていた。
アメル将軍はサオルジオ師団の残りをオネーリャから遠くないタッジャ河畔に集め、オネーリャ自体にはセルヴォニ将軍が指揮する第117半旅団の1個大隊及び第99半旅団の2個大隊が駐屯した。インペロ峡谷上流のサン=ラッザロ=レアレは右翼の残り部隊と中央、予備の集結地点となり、その兵力は4月14日時点で8000人から1万人に達した。彼らは翌日、1つの縦隊となってピエヴェ=ディ=テコ方面へと移動した。
部隊配置の再構築や補給によって生じたこの遅れは、オーストリア=サルディニア軍がタナロ峡谷での防衛準備をいくらか整える時間を与えた。11日にオルメアに到着したダルジャントー将軍は、次第に使えるようになってきた10個大隊をジェノヴァ国境に沿って配置し直し、ロイアにいるコッリのピエモンテ軍と、アレッサンドリアからボルミダ河畔のカイロ=モンテノッテへと行軍しているヴァリスのオーストリア軍とのリンクを作り上げようとした。
カイロはモンドヴィ連隊の1個大隊が200人の民兵とともに守っており、同連隊の他の大隊は両ボルミダ峡谷の上流を守るため、ギューライ義勇兵とともにムリアルドに腰を据えていた。軽軍団の第1大隊はサン=ベルナルド峠(ガレッシオ南東)に送られ、ロアノ民兵が避難しているバルディネットに60人を派出した。カンパラ連隊の1個大隊と4個中隊は予備としてガレッシオにとどまり、残りの戦力はウペガにまで至るタナロ峡谷の上流を占拠する。
だがこの戦力は、広く接近が容易な地域を守るには不十分だった。彼はド=ヴァンに対しては左翼をカバーするための増援を求め、またコッリには右翼で攻勢に出ることで支援するよう主張した。さらに4月14日から15日にかけ、オルメアとポンテ=ディ=ナヴァで抵抗する準備を整えた。タナロ左岸には2門の大砲を備えた砲台が築かれ、ナヴァ沿いの主要道路を砲撃できるようにした。砲台の背後にはロンバルディア連隊が配置され、ナヴァ道路を挟むランザタとピッツォの岩場には150人の兵が塹壕に布陣した。
オネーリャ公領の戦闘と分遣隊の派出で弱体化していた軽軍団第2大隊は、タナロ右岸のアリオロ山からバルツィ=デラ=クロチェッタに分散された。前者の地点には600人の、後者の地点には100人から200人の民兵がおり、南方のピエヴェ=ディ=テコや東方のカプラウナからの道を守っていた。この道はタナロ河にかかるカンタラナの橋まで続いており、この地点では左岸の高地をストラソルドの擲弾兵4個中隊が占拠していた。最後にムリアルドから呼び戻されたギューライのクロアチア2個中隊は、脅かされているように見えたサン=ベルナルド峠の外国人軍団の大隊を支援することになった。実際、敵を牽制するためにラフォン大佐と第99半旅団の2個大隊は11日にオネーリャからロアーノへと移動を始め、翌日にはそこを占拠していた。
16日早朝、マセナはピエヴェ=ディ=テコからオルメアへと移動した。第99半旅団の1個大隊と予備の一部は、タナレロ峠を見張り、アンダーニャとトリオラの兵と接しておくために、アロシア上流のメンダティカに向かった。ラアルプ旅団はナヴァ峠を経てアリオロ山の攻撃に向かったが、そこの防衛部隊は東南にあるベランディからサン=ベルナルド教会を経てムーレ将軍が送り込んだ軽歩兵第3大隊を前に、戦うことなく午前10時に陣地を放棄した。
ムーレ将軍は師団の残りを率いてアルノからバルツィ=デラ=クロチェッタの真下にあるプラレ峠に向かった。この地点に敵がいると知らされたマセナは、予備の第21半旅団がモアノ経由で向かったドメニカ峠の確保を確実にするため、ムーレに後退を命じた。弱体なピエモンテ軍の拠点は45分間の射撃戦の後に後退。かくして高地を確保した共和国軍はストラソルドの擲弾兵の奪回の試みを撃退し、右翼へと延伸しつつ散兵をタナロ峡谷へと送り込んだ。
ダルジャントーにできるのは退路を確保することだけだった。ランザタとピッツォに集まったロンバルディア連隊は、夜の間にポンテ=ディ=ナヴァの北方にあるテルミニ峠を越えて退却した。カプララ大隊は朝のうちにガレッシオから呼ばれ、後者の地にはシュミットフェルト連隊の一部が到着した。オルメアとタナロ右岸のサン=ジュゼッペにそれぞれ1個師団が配置され、残る1個師団はカンタラナまで前進してそこでストラソルド擲弾兵、軽軍団の大隊、及び民兵を再編をカバーした。
夕方、この2000人から3000人の集団は1つの縦隊となってガレッシオへと後退した。だがバルキに到着したところで、ムーレ将軍がカプラウナからサン=バルトロメオ峠を経て送り出してきたフランス軍前衛部隊の攻撃を受けた。街道を捨てて山道へと逃げた彼らは散り散りになった。軽歩兵大隊はカゾット峡谷へと向かった。ダルジャントーが翌朝チェヴァに到着した時、手元に残された兵は800人しかいなかった。だが戦闘で失ったのは士官4~5人と兵200人だけだったという。
4月17日、ムーレ師団はタナロ峡谷右岸の山中を進み、哨戒線をサン=ベルナルド峠方面へ押し出した。オーストリア=ピエモンテ軍はこの拠点からバニャスコへ、さらにチェヴァへと引き下がっていった。ラアルプ旅団の先頭に立ってマセナはポンテ=ディ=ナヴァを奪い、そこからオルメアへと行軍した。町は降伏し、夕方には砦の守備隊も無条件降伏してフランス擲弾兵2個中隊がそれと交代した。夜の間にはガレッシオに降伏勧告の使者が向かい、翌朝8時には500人の兵がそこを占拠した。町の名士たちは人質になった。
逃亡兵の尋問、スパイの助言、住民からの情報は、いずれも敵の混乱を示していた。派遣議員とマセナ将軍は、奇襲によるチェヴァ要塞奪取を試みることを決めた。成功すればイタリア方面軍の目の前にピエモンテ平野への出口が開かれる。4月18日、そのための命令が下された。
タッジャ河畔のアメル将軍は1日目にライゲーリャへ、2日目にロアーノへ進み、3日目には可能な限りガレッシオの近くに接近する。オネーリャで指揮を執るセルヴォニ将軍は、ピエヴェ=ディ=テコで集めた捕虜と脱走兵を海陸両方からニースへ送る。オルメアの治安担当となったラアルプ将軍はこの地で可能な限りパンを焼き、弾薬、靴、ワインと合わせてすぐガレッシオへ送る。ブリュレ将軍は中央師団の兵の大半と、第3軽歩兵及び第117半旅団の第1大隊をガレッシオに差し向ける。最後にムーレ将軍はオルメアへ移動し、周囲の高地とポンテ=ディ=ナヴァを確保するため師団の残りを配置する。
19日朝にはガレッシオに集められた3500人は午後1時には出発する準備を整えていた。だがパンの欠乏のため、彼らの出発とラアルプから求められていた1000人の増援の出発は禁止された。翌日、第117半旅団の第2大隊も加えたこの部隊はチェヴァに向かう代わりに、ブリュレ将軍の指揮下でピエヴェ=ディ=テコとモリニを経てテナルダに向かった。彼らがそこに到着したのは25日だった。冬営から出発した兵が相次いで到着したおかげでフランス軍に脅威を与えることができたニース伯領のオーストリア=サルディニア軍に対処するため、フランス軍はチェヴァに向かうという大胆な計画を破棄し、再びロイア上流に対して行動することを余儀なくされた。
もしここでチェヴァに対する奇襲が行われていた場合、この戦役の結果はどうなっていただろうか。フランス側の兵力も限定的だったことを踏まえるなら、これによって実際に1796年に達成したような成果(ピエモンテの連合国からの脱落)が挙げられたかどうかは分からない。それでもイタリア方面の戦役が大きく様変わりしていた可能性はあるし、逆にその後のボナパルトによる功績が一部失われてしまったかもしれない。なかなか興味深い歴史のIFだと思う。
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