イタリア・1794年春 5

 1794年春のイタリア戦役続き。Campagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796によると、3月末に連合軍の情報がジェノヴァ経由でフランス側に伝わってきた。オーストリア軍とナポリ軍がロンバルディアに集まり、ジェノヴァに圧力をかけようとしていることを知った派遣議員は、4月2日に即座に陸上経由で攻勢に出ることを決めた。増援部隊に、以前からのイタリア方面軍部隊も加えた遠征部隊の戦力は歩兵31個大隊、約2万人に達し、これらはモナコ、マントン、カスティヨン、ソスペロに集まった。指揮権はマセナに委ねられた。
 連合軍を少しでも困惑させるべく、フランス側は3月23日に捕虜の交換を申し出た。さらに直接遠征に参加しないイタリア方面軍の左翼と中央にも、作戦開始日となる4月6日に攻撃を行うよう命令が出された。これに合わせ、ヴェジュビー峡谷ではフランス軍がユーテルとサン=タルヌーから3つの縦隊で前進し、セリシエール、ピカル(ヴェジュビー右岸)、ゴーディサール(左岸)の堡塁へと向かった。うち中央の縦隊はラントスクまで到達したが、そこで兵たちは略奪のため散り散りになった。
 これに対し、コッリ侯爵は巧妙に反撃した。ほんの数百人の予備とともに前進した彼は、ラ=ローク伯が守るセリシエール要塞の救援に駆け付け、攻撃側を撃退すると、さらにピカルへ進んだ。それから兵を集めなおした彼はカステラ―ルの丘を奪回し、民兵とともにフィガレとサン=タルヌーまで敵を追撃した。ヴェジュビー峡谷でのフランス軍の攻撃は完全に押し戻された。
 稜線上のオーストリア=サルディニア軍は、ヴェジュビー峡谷よりさらに戦力が多かった。オーティオンの防衛施設(ラ=フルカ、ミル=フルシュなど)には4個大隊が配備され、前進拠点であるテュエイ峠には擲弾兵2個中隊がいた。右翼側(北西)にはサン=ヴラン峠とラウス山に守備隊が送られていた。パイア=イム=ホフ連隊の第1大隊は背後のカイロス峡谷に、モンフェラート連隊の第1大隊はオーティオン東方のベオラ堡塁に配置され、さらにオーティオン南方のヴェンタブレンには民兵がいてフランス軍の示威行動を容易に撃退した。
 この方面にはルセラムとその北西にあるサン=ロック峠を出発したビザネ将軍が攻撃をしかけた。午前10時にカルメット山に到着した彼は、600人の兵をマンテガスとフガス山の先端まで押し出した。その一部はこれらの地域を突破し、キャンプ=ダルジャンの下部にまで到達し、テュエイまで攻め込む勢いを示した。さらにムリネからサン=マルタンへの尾根を登ってきた部隊もピエモンテ軍に迫った。だがテュエイから派出されたパイア=イム=ホフ連隊の志願兵たちと100人の擲弾兵が、オーティオンからの1個大隊の支援を受けて彼らの足を止めた。両軍は正午まで射撃戦を続け、それから塹壕を掘った。
 一方ロイア峡谷では、右岸のダニョン峠から出撃してきた部隊が、最初はラ=マリアの納屋からピエモンテ義勇兵とカナレ猟兵を追い払った。しかしコラ=バサ山の防衛にあたっていた部隊から送られてきた3個大隊によって彼らはすぐに後退を強いられた。同じころ、ロイア河畔のラ=ジアンドーラを発した部隊はマリア左岸に足場を築き、大砲2門と曲射砲2門の砲列を組んでピエモンテ軍の前衛部隊をガンの交差点へと後退させた。

 とはいえ上記の作戦行動はすべて陽動であり、フランス軍の主攻軸はロイアよりさらに東に向けられていた。この地域には、現在の仏伊国境となっているベルトラン山からタラッジョ山に至る稜線があり、そこにはタナレロ、コラ=アルデンテ、タナルダという3つの峠が通っていた。それらの峠から西に向かえばサオルジオの背後にあるテンダやラ=ブリガに至り、東に下ればタナロ、ジリボンテ(アルジェンティーナ)、ネルヴィアという3つの峡谷に達した。ピエモンテ軍はこの方面でジェノヴァ共和国との国境沿いに部隊を展開していた。
 ネルヴィアの下流にはドルチェアクア侯領があり、そこもまたサルディニア王の領土だった。この峡谷とロイア峡谷を隔てる山脈は、アルペッタ山からモンタ=コミュネに至るスカファ=デ=ジオ(モン=ジョヴ)と呼ばれる地域から越えるのが容易になった。この地からはズアイネ峡谷を経てロイア峡谷まで下ることができた。ピエモンテ軍ではドルチェアクアの上流ロケッタ=ネルヴィナにニース第2大隊が布陣し、スカファ=デ=ジオの南方ロシュ=フルカンには400人の民兵を置いていた。そしてこの地より下ると山地は緩やかな丘の連なりになっていた。
 ネルヴィアとジリボンテの間にはチェッポ山やビネリ山など森がちな山塊があった。そこを抜ける道もあまり多くなく、その1つがピーニャとトリオラをつなぐランガン、あるいはサン=ジョヴァンニ=デル=プラティと呼ばれる峠だった。トリオラから真っすぐ北上するとガルレンダ峠を越えてタナロ峡谷へとたどり着くことができ、また東に向かうとより緩やかな山地を越えてアロシア峡谷(河口にはアルベンガの町がある)あるいはインペロ峡谷(河口にあるのはオネーリャ)にも行くことができた。
 オネーリャ公領は西はタッジャ河畔のモンタルト=リグレ付近まで、北と東はピエヴェ=ディ=テコとヴィラノヴァからレッツォとガルレンダまで広がっていた。オネーリャ公領の守備は地元民兵と軽歩兵軍団第2大隊に委ねられており、他の大隊はチェヴァで冬営に入っていた。最も近くにいた味方はロンバルディア連隊だったが、彼らは内陸のモンドヴィとオルメアに布陣していた。
 こうした地理的な条件や敵の位置からフランス軍の計画は立案された。オネーリャ奪取とサオルジオ防衛線の迂回という2つの目的は4月2日の派遣議員の命令に明記されており、この目的のために遠征軍は4つの師団に分けられたとKrebsとMorisは記している。実際の命令書(Mémoires de Masséna, Tome Premier, p258)を見ると3つの師団が記されているが、それに予備を加えて4つと記したのだと思われる。
 右翼のオネーリャ師団は2つの縦隊でこの町とインペロ峡谷上流を目指す。左翼をカバーするサオルジオ師団はロシュ=フルカンとアルペッタ山へと進み、中央のタナロ師団と、その後に続く予備は、ネルヴィア峡谷を遡ってジリボンテとタナロの源流にたどり着き、チェッポ山の北方を越える。そこから彼らは左翼に転じてピエモンテ軍をテンダ峠の向こうまで押し戻すことも、あるいは右翼と連携して機動し、ポンテ=ディ=ナヴァへと出撃することも可能になる。作戦は4日から5日で完了するよう、行軍計画が調整された。ただしこれは春山がもたらす障害を計算に入れていないものだったという。

 各師団は4月4日に閲兵を受け、5日から6日にかけての夜間に動き出した。これらの動きを支援するため、ブレイユからは2つの分遣隊がロイア左岸の敵陣地を脅かすべく、1つはペンナとリブリ橋を経て、もう1つはクリュエラの塔を経て出発している。
 遠征軍主力のうち左翼はソスペロに集まり、2つの縦隊を形成した。アメル将軍が指揮する1つの縦隊はオリヴェッタ、アイロレ、アベリオ山を経て北上し、フルカン峠にいた民兵たちと銃撃戦を始めた。後者はロケッタ=ネルヴィナにいた味方が退却したのに続いて、次第にアルペッタ山へと押し込まれた。ルブリュン将軍の指揮する第2の縦隊はラ=コルヌ峠からサン=アントニオ、ストラフォルチェを経てドルチェアクア北方のモンタルトに到着したとされている。この記述の通りなら彼らはソスペロから直接南下し、カスティヨンを過ぎたところで東に転じ、コルナ峠を越えて進んだことになるが、これらの地名はKrebsらによると正確でないものも含まれているそうだ。
 FabryのHistoire de la campagne de 1794 en Italieを見ると、また全然違うルートが記されている。サオルジオ師団はオリヴェッタ経由でロイア峡谷に入ると、アイロレよりもさらに下流のトリニタ付近で渡河し、ドラン峠(ドーリン山)に到着。そこで2つの縦隊に分かれ、左翼は稜線沿いにトラマンティーナ山、アベイロ山を経てロシュ=フルカンへと向かうよう命じられていた。Krebsらの説よりもずっと大回りだ。
 2つめの縦隊はドラン峠からドルチェアクアへと下り、そこからネルヴィア峡谷を北上してバルバイラで橋を渡ると稜線に沿ってさらに北上。モルギ山、アルト山を経てコムネ山にたどり着くことになっていた。そのうえで北方からロケッタ=ネルヴィナを占拠するという、第1縦隊よりもさらに無駄な大回りをする計画が立案されていたそうだ(CLX-CLXI)。さすがに最後の部分は現実味がなさすぎる行軍計画だと思うが、実際のところがどうだったのかは残念ながらこれらの文献を読んでもよくわからない、としか言いようがない。
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