前回まで、1794年の春季戦役に関するセント=ヘレナのナポレオンの発言がどこまで正確なのかについて調べてみた。基本的にナポレオン個人の行動については疑わしい部分が多いというのが結論だが、それはそれとして実際にこの戦役がどのような経緯をたどったかについては、もっと詳しく調べてもいいだろう。何しろろくに知られていない戦いだ。まずは事実経過を把握しないことには、そこから推測を組み立てることもできない。
問題は、例えば
オスコットの戦いの時に使えたような質のいい古地図が見つからない点だ。この戦役は山中での戦闘が中心であり、個別の山や尾根、谷筋といった細かい地名が多数出てくる。そこまで詳しく書いた地図がなかなかないのだ。敢えて言うならFabryの本の巻中に採録されている地図がそれなりに詳しいが、決して期待できるほどのレベルではないうえに、何より印刷が汚く文字が読めないところすらある。要するに実用には向かないのだ。
使えそうなのは、等高線がきちんと書かれている
Mapcartaや、拡大すればかなり細かい地名を見つけることも可能な
google mapsあたりだろうか。ただし、それでも見つからない地名、おそらく昔とは変わっている地名などが頻出するのは避けられない。大雑把な位置を把握しながら、フランス軍とピエモンテ軍双方の動きを追っていくしかない。
1793年が終わった時点で、革命政権にとっての南仏の危機はかなり薄らいでいた。リヨンの反乱は鎮圧され、トゥーロンからは連合軍が撤収した。サヴォワに対して行われたピエモンテ軍の反撃も撃退され、フランス軍は1792年に占拠したサヴォワとニース伯領の部分を引き続き確保していた。冬になるとマリティーム=アルプス山中での戦闘は雪によって中断され、両軍は動きを止めていた。
フランス軍はサヴォワにアルプス方面軍を、ニース伯領にイタリア方面軍を展開していた。後者は大きく3つのグループに分かれていた。うち左翼(西側)は4つのグループに分かれており、1つはアントルヴォーとその周辺に展開する守備隊及び、アルプス方面軍から送られてきてコルマール=レ=ザルプ付近に展開している部隊で構成されていた。2つ目はヴァール右岸のジレット、ルヴェスト=レーロシュ、コンセギュード、ベゾーダン=レ=ザルプに展開していた。
3つ目はヴァール河沿いから左岸のサン=マルタン=デュ=ヴァール、ラ=ロケット=シュール=ヴァール、ルヴァン、トゥレット=ルヴァン、シャトーヌフ=ヴィユヴィエイユなどの分遣隊で構成されており、ニースからヴェジュビー河沿いのユーテルに至る街道を守っていた。4つ目はさらにヴェジュビー上流のブレク山、ブラケ、フィガレにおり、戦力は1500人から2000人ほどだった。これらの配置は1793年9月に定められた冬営計画に従っていた。
一方、冬場はルセラムから南へ流れるパイヨン流域の盆地に引き下がることになっていた中央部隊は、夏の間に占領した拠点にとどまっていた。彼らはコラ=バッサ宿営地とルセラムにとどまり、ヴェジュビー峡谷からベヴェラ峡谷のムリネまでの連絡線を保持していた。さらにムリネより東のブルイ峠、ベウレ山、ロイア峡谷のブレイユ=シュール=ロイア、ベヴェラ中流のソスペロ、その南方にあるカスティヨン、その西にあるレスカレーヌなどにも8000人から9000人の兵がとどまっていた。
右翼を構成していた部隊は、実際には地中海沿岸のフレジュスからマントンまで広がっていた。この部隊はトゥーロン陥落後にその攻囲に当たっていた部隊の増援を受け、徐々に新しい半旅団を編成していた。融合されることになっていた各大隊は順次ニースを訪れ、可能なら武器や装備を受け取った。イタリア方面軍の総戦力はおよそ3万人にまで達していたが、彼らと対峙しているピエモンテ軍は5000人から6000人のピエモンテ正規兵と、1600人ほどの民兵しかいなかった。
ピエモンテ軍はヴェジュビー峡谷やロイア峡谷上流と、オーティオンの山中に築かれた防衛拠点を守っており、指揮を執っていたのはデレラ将軍だったのだが、2月中旬には
コッリ将軍がこの戦線に到着しオーストリア=サルディニア軍の指揮官となった。彼は戦線の強化を始めたが、その結果としてフランス軍と連合軍の哨戒線同士の小競り合いが増えることになった。
サルディニア軍の一部を率いていた
コッリ侯爵は、数百人の志願兵と1000人の民兵という少ない戦力ながら、ヴェジュビー峡谷で4000人のフランス軍と対等に渡り合った。2月25日にはこの峡谷内のピカルを巡る戦闘があった。さらにオーティオンを拠点にしたピエモンテ軍とフランス軍が、カルメット、マンテガス、マンジャボなど稜線上の拠点でも争い合った。ピエモンテ軍はオーティオンの拠点強化も図った。
ロイア峡谷でも3月5日以降、両軍の間でブルイ峠、ダニョン峠、ラ=マリアにあるピエモンテ側の拠点(以上はロイア右岸)、ブレイユの塔、ガン、オルネーリャ(ラ・ジアンドラ対岸)、アイネ山(ロイア左岸)などを巡る小競り合いが繰り広げられた。この方面を担当していたフランス軍はマッカール師団だったが、彼らは連合軍の積極的な行動に翻弄された。
3月25日、フランス軍は擲弾兵の支援も受けてヴェジュビー峡谷のピエモンテ軍をラントスクの修道院まで押し込んだが、連合軍に増援が到着したため押し返された。他にも3月中旬にこの方面ではピエモンテ軍による小さな成功がいくつかあった。だがデレラ将軍はフランス側に増援が到着していることを踏まえ、ドルチェアクア峡谷やトリオラ峡谷、つまり連合軍の左翼方面に偵察を送るのを認めるよう上官であるオーストリア軍のド=ヴァン将軍に要請した。彼らが既にフランス軍による迂回行動を警戒していたことが分かる。
だがオーストリア側の反応は鈍かった。かろうじてアレッサンドリアとデゴ方面に部隊が差し向けられ、ジェノヴァ共和国に圧力をかけることが決まっただけだった。4000人のピエモンテ軍が、オネーリャ公領の部隊を支援し、かつサオルジオ戦線で戦う味方の側面を守るため、タナロ峡谷を占拠した。サオルジオ戦線には10~12個大隊が増援として送られることになり、コッリ将軍はその指揮のため呼び戻された。しかしド=ヴァン将軍はフランス軍がすぐに攻撃に出てくるとは想定していなかった。
フランスでは1793年末に公安委員会が全ての権力を集約し、革命政権が形作られていた。国家の防衛を最優先に考えていた彼らは、各軍の役割を明確に規定した。イタリア方面軍の目的は、オーストリア=ピエモンテ軍と英=スペイン艦隊の直接連絡を妨げ、背後からの襲撃によってサオルジオ線を放棄させ、そして軍と南部住民のための必要な食糧確保を図るため、オネーリャの奪取に定められた。
特に最後の視点から、遠征はできるだけ早く行われる必要があった。トゥーロン攻囲の間、プロヴァンス地方の飢餓は厳しく、派遣議員はこの地方を放棄することすら提案したほどだった。国内からの補給が困難だったこの地域で頼りになったのは、海から輸入される外国の食糧だった。それを手に入れるため、この地域では最高価格法を上回る金額での購入が認められた。トゥーロンの武器庫が炎上したため輸送船団を守るすべがなく、輸入のためにはカボタージュと呼ばれる沿岸航行に頼らざるを得なかったが、これはオネーリャに拠点を持つサルディニア私掠戦のいい的であった。
1月時点で公安委員会は小サン=ベルナール峠とモン=スニ峠の奪取後にオネーリャ遠征を想定していた。だが事態の切迫に伴い、2月にはその方針を転換した。コルシカ遠征用に用意されていた6000人の部隊や、雪解けまでサヴォワでは使用できない兵など、合わせて1万8000人から2万人の遠征軍が用意できそうなことも、事態の進展につながった、オネーリャ攻撃の命令は同じ日にパリで公安委員会が、ニースで派遣議員が命じた。
ただオネーリャ占拠のみを考えていた公安委員会は海からの攻撃を想定しており、可能な限り多くの船をニースに集めるよう命じた。奇妙な話だが、この時、政治的な思惑が軍事作戦に絡んできた。3月10日にライン方面軍のオッシュに対し、遠征の指揮を執るよう命令が下されたのだ。ところがイタリアに向かったオッシュを待っていたのは、彼を逮捕せよとの命令だった。オッシュの後任に指名されたアルプス方面軍のプティ=ギヨームも作戦に間に合うように到着することができず、フランス軍は作戦開始直前に指揮官不在となってしまった。
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