ところがこの主張に対し、改めてブオナパルテの役割は大きかったと主張する研究書が、その本の数年後に出版された。Colinが記して1901年に出版されたL'éducation militaire de Napoléonがそれだ。彼はAlombertとの共著で1805年戦役に関する大部の書物も記しているような研究者。その彼が、ブオナパルテが計画立案にも作戦の実行にも重要な貢献をしたのだと主張しているのだから、簡単に無視はできないだろう。
だが、ブオナパルテがこの計画を書き上げたという証拠はあるのだろうか。Colinは3つの論拠を示している。1つはこの、各縦隊や日程に合わせて記されている複雑な作戦計画が、2ヶ月後にブオナパルテが記した別の計画と似た体裁をしていること(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier, p33-41)。2つ目は、ブオナパルテ自身が率いるオネーリャ縦隊の砲兵部隊に対する指示のみが記されていないこと、そして3つ目は、この手紙の筆跡がジュノーのものだったことだ(p243-244)。
同じくColinの主張に懐疑的なのがFabryだ。1905年に出版された彼のHistoire de la campagne de 1794 en Italieでは、ブオナパルテがサリセッティの全面的な信用を得ていたことは認めているが、その一方でロベスピエール弟は必ずしもそうではなかったことを指摘。そのうえで「戦役開始時にボナパルトが及ぼした影響についてはどちらの側にも立たない。なぜなら文献を見ても彼に由来するに違いないと思われる部分を定められないからだ。1点だけ確実なことがある。最初の作戦計画の基礎は彼のものではない」(CLI)としている。
個人的にFabryの見解は妥当だと思うが、実際に後世まで影響力を及ぼしたのはColinの方だった。1911年に出版されたRevue historique de la Révolution Françaiseに載っているBonaparte et Augustin Robespierre à l'Armée d'Italie en 1794でも、ブオナパルテが作戦計画を立てたように見えると記している(p367)。今世紀になって出版されたBonaparte: 1769-1802でも、計画立案はナポレオンのものだと決めつけたような書き方をしている(p151-153)。
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