イタリア・1794年春 3

 セント=ヘレナのナポレオンが、1794年春のイタリア戦役の計画は自分が発案し、また実行段階でも活躍したと主張している点について、それが疑わしいという話を前回紹介した。同時代の史料を見るとナポレオンの後の発言と矛盾する記述が出てきたり、あるいは史料内にブオナパルテの名が見当たらないといった点が、こうした疑問の背景にある。この時期にブオナパルテがイタリア方面軍にいたのは事実だが、彼の役割は限定的だったのではないか、という話が19世紀末には登場していたのだ。
 ところがこの主張に対し、改めてブオナパルテの役割は大きかったと主張する研究書が、その本の数年後に出版された。Colinが記して1901年に出版されたL'éducation militaire de Napoléonがそれだ。彼はAlombertとの共著で1805年戦役に関する大部の書物も記しているような研究者。その彼が、ブオナパルテが計画立案にも作戦の実行にも重要な貢献をしたのだと主張しているのだから、簡単に無視はできないだろう。
 と言っても、さすがにColinであってもセント=ヘレナのナポレオンの言い分を全て肯定しているわけではない。特に会議の場でブオナパルテが、ジェノヴァ領を通ってサオルジオの戦線を迂回するよう提案したという部分については、Colinであっても否定的に見ている。それどころか、ナポレオンが1796年にヴェローナ付近に布陣してオーストリア軍を迎え撃った件についても、同じような計画が既に18世紀から存在していたと指摘(p232)。別にナポレオンの独創ではないと記している。
 ジェノヴァ領の中立侵害も同じだ。同年1月には既に駐ジェノヴァのフランス代理公使がジェノヴァ海岸の一部を占拠するよう主張しているし、2月15日にスパイがサリセッティに宛てて記した手紙には、フランス軍がジェノヴァ領を経由して攻め込むことをサルディニア王は恐れていると書かれている」。実際にピエモンテ軍の関係者も、ジェノヴァの中立が尊重されている限り、自国の防衛に対する懸念はないと述べていた(p239-240)。
 公安委員会のカルノーも、オネーリャを攻撃すれば「そこからサオルジオの陣地を覆し、ピエモンテへと侵入するのは容易」(p238)と主張している。ただし3月9日に公安委員会がオネーリャ攻撃を求めた際には、海からの攻撃を想定していたこともColinは指摘している。この作戦採用を派遣議員が決めた段階で、Colinの書物にブオナパルテが登場する。サリセッティは「大急ぎでブオナパルテをニースに呼び寄せた」。彼の力を借りて、カルノーらが示した曖昧な計画は「真の軍事計画」になったのであり、また陸上経由の計画が定まったのもこの時である、というのがColinの主張だ(p240-241)。
 だが、ブオナパルテがこの計画を書き上げたという証拠はあるのだろうか。Colinは3つの論拠を示している。1つはこの、各縦隊や日程に合わせて記されている複雑な作戦計画が、2ヶ月後にブオナパルテが記した別の計画と似た体裁をしていること(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier, p33-41)。2つ目は、ブオナパルテ自身が率いるオネーリャ縦隊の砲兵部隊に対する指示のみが記されていないこと、そして3つ目は、この手紙の筆跡がジュノーのものだったことだ(p243-244)。
 さらに、実際に作戦が始まった後になって、マセナが派遣議員から叱責の手紙を受け取る場面があった。Colinによればそこには「ボナパルトのスタイルが容易に見て取れ、また作戦計画の筆者でなければあり得ないほど強力に計画が擁護されている」(p244)そうだ。同じことはp248にも書かれており、どうやらColinはこの派遣議員名義の手紙は実際にはブオナパルテが書いたものと見なしているらしい。

 さて、上記の主張はどこまで妥当性があるのだろうか。個人的にはかなり苦しいと思っている。まず計画が2ヶ月後にブオナパルテの書いたものと似ているという話だが、似ているからといって同一人物が書いた証拠にはならない。オスコットの戦いについて書いた時にも触れた通り、この時期のフランス軍は各縦隊に数日先までの計画を事前に示すのが当たり前だった。単にブオナパルテもそのやり方に従っていただけと思われるし、そして彼以外であっても同じように計画を書いていた可能性はある。
 それに、そもそもこの作戦計画にはイタリア方面軍司令官であるデュメルビオンの名が記されており(p405-413)、これをブオナパルテのものとするのは無理筋である。ブオナパルテが率いた部隊に対する命令がないという指摘についても、単に忘れていた可能性や、デュメルビオンが同じくニースにいたブオナパルテに対しては直接口頭で命令を出した可能性だってある。積極的な証拠とは言い難い。またジュノーの筆跡であるとColinは主張しているが、同じ計画書を引用しているKoch(p258-266)は、そうしたことを一言も書いていない。
 同じくColinの主張に懐疑的なのがFabryだ。1905年に出版された彼のHistoire de la campagne de 1794 en Italieでは、ブオナパルテがサリセッティの全面的な信用を得ていたことは認めているが、その一方でロベスピエール弟は必ずしもそうではなかったことを指摘。そのうえで「戦役開始時にボナパルトが及ぼした影響についてはどちらの側にも立たない。なぜなら文献を見ても彼に由来するに違いないと思われる部分を定められないからだ。1点だけ確実なことがある。最初の作戦計画の基礎は彼のものではない」(CLI)としている。
 発案者がブオナパルテでないことはColinも認めており、それだけならFabryも彼と同意見に見える。だが他の場所でFabryはColinの見解に対する違和感をいくつも表明している。例えば作戦計画の文章については「戦いを追い求めることで構成され、ボナパルトがすぐに刻印することになった革新的かつ創造的な革命戦争の性格は、まだそこに表れていない」(CLVIII)と記している。あるいは各縦隊がバラバラに進撃している様など、作戦の「あらゆる点はボナパルトがそれに参加していることを疑わせる」(CCX)とも記している。
 作戦実行段階についても同じ。ブオナパルテは作戦開始後の4月7日になっても「まだ[ニースより後方にある]アンティーブにいた」(CCX)。また、Colinがナポレオンの手によるものと推測している派遣議員からマセナに対する叱責の手紙についても、実際には派遣議員が差し迫った絶え間ない活動の中から出てきたものであり、「この文書を否定することも、署名者以外の誰かのものとみなすのも承認できない」(CCXIInote)と書いている。さらに、Colinがジュノーの筆跡だとしている文章についても、Kochと同様に誰の筆跡かについては何も触れていない(p163-168)。あくまでそれがデュメルビオンの命令であると示しているだけだ。
 Fabryは序文の中でも、1794年春の戦役に関するナポレオンの影響を明確にはできないとしながらも、そのうえで「彼[ナポレオン]が指揮を執るや否や、このような[事前に数日先まで行動を定めるような]複雑な計画のままとどまるものはなくなった」と書いている。また、ボナパルトが事前に知らせることなく数名の砲兵をオネーリャに異動させたことに対する6月2日付のマセナの不満についても紹介し、革命期の将軍は自分とその部下の間に中間的な権威が介入することを許さなかったと指摘。6月20日付の手紙でマセナが「将軍が准将の、特に砲兵将軍の介入に耐えられるなどと信じられるのですか?」と書いていることも紹介している(II)。
 Colinの説を認めるなら、ブオナパルテはマセナの行動に対して強く批判していたことになるのだが、このような手紙を書いていた将軍が、自分より地位が低い人物による叱責を果たして甘んじて受け入れたと考えるべきだろうか。そうではなく、マセナへの叱責はやはり派遣議員自らによるものであり、だからこそマセナはその叱責に抵抗できなかったと考える方が辻褄が合っているのではなかろうか。
 たとえブオナパルテが作戦立案や実行にかかわっていたとしても、彼の役割は従属的なものにすぎなかった、というのがFabryの実感なのだろう。そうでないとしたら、この時期のブオナパルテは他の革命期将軍たちと同じレベルの作戦しか作っていなかったわけで、後に欧州を席巻するような軍事的才能が既に表れていたとは解釈できない。1794年春の戦役におけるブオナパルテは、「有能な軍人だったが主導的役割を果たしていなかった」か「この時期の彼は凡庸な軍人だった」のどちらかになる。

 個人的にFabryの見解は妥当だと思うが、実際に後世まで影響力を及ぼしたのはColinの方だった。1911年に出版されたRevue historique de la Révolution Françaiseに載っているBonaparte et Augustin Robespierre à l'Armée d'Italie en 1794でも、ブオナパルテが作戦計画を立てたように見えると記している(p367)。今世紀になって出版されたBonaparte: 1769-1802でも、計画立案はナポレオンのものだと決めつけたような書き方をしている(p151-153)。
 以前にも書いた「簡単だが間違っている回答と、複雑だが正しい回答」を示す、これも1つの例なのだろう。そして多くの人にとっては前者の方が魅力的に見えてしまうことが、図らずも証明されてしまっている。
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