1796年ドイツ(byナポレオン)その3

 承前。


III.
 6月1日、クレベールは24個歩兵大隊と20個騎兵大隊から成る彼の軍団を率いてデュッセルドルフから進軍した。2日に彼はジーク川に到達し、前衛と伴に交戦した後で川を渡りウケラトの陣地を攻略した。4日、彼は1万5000人の兵と伴にアルテンキルヒェンの丘に布陣したヴュルテンベルク公を攻撃し、彼を打ち破って2000人の捕虜、4旒の軍旗、12門の大砲を奪った。その後で彼はラーン川へ進軍した。指揮官ジュールダンはノイヴィートでライン河を渡り、ラーン川沿いで左翼と合流した。マルソーはベルゲルフィールドの陣地を出立し、メンツ前面へ前進した。カール公は上ライン軍から8000人の分遣隊を引き抜き、サンブル=エ=ムーズ軍へと行軍した。6月15日、彼はヴェッツラーでルフェーブル師団を攻撃し、これを破って軍旗1旒、大砲7門を奪った。ジュールダンは宣言していた6月17日に会戦を行う計画を捨て、彼の全軍を退却させた。彼はケルンとノイヴィートの橋で軍の一部と伴にライン河を再渡河し、クレベールをデュッセルドルフへ向かわせた。敵から厳しい圧力を受けたクレベールは、6月19日にアルテンキルヒェンで会戦を強いられた。彼はこの戦闘から名誉を保って自らを救い出し、何らの物質的損害も蒙らずにデュッセルドルフに再度布陣した。
 ヴルムゼルは分遣隊をイタリアへ進軍させた後で、彼の戦線を縮小し、左翼をライン河沿いの陣地を築いたフランケンタールという小さな町に置き、右翼は山岳部に拠った。モローはドゼーとサン=シールに彼を攻撃するよう命じた。前者はラインと山岳部の間で、後者はホンブルクとドゥー=ポン[ツヴァイブリュッケン]の間で機動した。6月15日、随分と激しい戦闘の後でオーストリア軍の後衛は撃退され、1000人を失いマンハイム橋頭堡への退却を強いられた。しかしこの僅かな成功は同時期にサンブル=エ=ムーズ軍が阻止されたことを補うものではなかった。


 以下、次回。

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