イタリア・1794年春 2

 前回は1794年のサオルジオ戦役について、ナポレオンがセント=ヘレナで語った内容に基づいた流れを紹介した。今回はその内容について、後の時代の研究者らがどのように言及しているかを紹介しよう。肝になるのはナポレオン自身が主張している「サオルジオ攻略計画を自分が立案した」という部分と、もう一つ彼自身がオネーリャ攻略に当たった遠征軍右翼を率いていたという部分だ。

 まず最初に紹介するのは、1848年に出版されたMémoires de Masséna, Tome Premier。ナポレオン自身も認めているようにこの戦役にはマセナも参加しており、従ってKochが記したこの伝記にもサオルジオ攻略に関する話が載っている。そこではイタリア方面軍司令官デュメルビオン、参謀長コーティエ、砲兵指揮官であるブオナパルテ、工兵指揮官ヴィタル(ヴィアルではない)、マセナ、そして工兵少佐リュスカ(准将ではない)が参加した会議があったと記されている(p37)。
 まず興味深いことに、Kochは連合軍の左翼を迂回する作戦案を最初に考えたのはこのリュスカだと指摘。そのうえで実際に陣地を視察したブオナパルテがこの作戦の優位性を主張した、という流れになっている(p37-38)。さらにジェノヴァの中立を侵害する点について、ナポレオンがセント=ヘレナで述べたような内容から先に中立侵害をしたのは連合軍側だとの見解で会議参加者は一致したが、派遣議員たちは政治的な決断を下す責任を取ろうとはせず、この件を公安委員会に問い合わせたという。公安委員会がジェノヴァ領に入ることを容認する布告を出したのは2月8日だそうだ(p38)。
 続いて作戦において、遠征を行なう軍が3つの師団に分かれていることに言及。マッカール率いるサオルジオ師団が左翼、マセナ指揮下のタナロ師団(2個旅団)が中央に展開し、オネーリャに向かうのはムーレ率いる右翼のオネーリャ師団(2個旅団)であると説明している(p42)。そのうえでオネーリャ師団は「ブオナパルテ将軍を伴ったサリセッティとロベスピエール弟の両派遣議員の直率下に置かれた」(p44)というのがKochの解説だ。
 一読して分かるが、Kochは作戦立案については(リュスカへの言及を除き)ほぼナポレオンの発言を丸写ししている。一方、実際の作戦そのものについては巻末史料その2(p258)に従いつつ、最後になってナポレオンがセント=ヘレナで言ったことと辻褄を合わせようとしている。それでもさすがにナポレオン自身が3個旅団を率いたという主張と整合させることはできず、2個旅団を派遣議員が直接率い、そこにブオナパルテも同行したという言い回しで胡麻化している。
 読んでいると、Kochが矛盾する史料を前に悩んだ様子が浮かび上がるのが面白い。後に説明するが、リュスカが最初に計画を立案したのは同時代史料を見れば明白だ。また巻末史料その2を読んでも、どこにもブオナパルテがオネーリャ攻撃を指揮したという記述はない。一方、セント=ヘレナのナポレオンは明白にそうした主張を出している。Kochは一致しない史料を無理に両立させようとしたのだが、残念ながら彼は重大な矛盾に目を瞑っている。
 何より決定的なのは、公安委員会が布告を出した日付(2月8日)だ。会議の提案をパリに示し、それに対して公安委員会が了承したのだとすれば、会議そのものは2月8日よりも前に開かれていたと考えられる。だが、前回も紹介した通り、セント=ヘレナのナポレオンがイタリア方面軍に赴任したのは3月に入ってからで、彼は3月中に陣地を偵察したうえで迂回作戦を提案しているはずなのだ。Kochの記述を受け入れるなら、ブオナパルテの提案は時間を遡って1ヶ月前の布告を生み出したことになってしまう。
 そうした矛盾があるにもかかわらず、Kochの説明はその後もしばらく受け継がれた。1878年に出版されたHistoire de la révolution française dans les Alpes-Maritimesでは、ブオナパルテ将軍が「会議の場で攻撃計画を提案し、マセナと、工兵少佐であるドルチェアクアのリュスカがそれを指示し、皆が承認した」(p234)という文章がある。作戦会議が開かれ、その際にブオナパルテが攻撃案を示し、それが採用されたという流れはKochの解説と同じだ。

 しかし19世紀末にはこのおかしさをはっきり指摘する文献が出てくる。KrebsとMorisが1895年に出版したCampagnes dans les Alpes pendant la révolution, 1794, 1795, 1796がそれだ。同書の1章は「オネーリャ、オルメア、サオルジオとテンダ峠の征服」と題しており、まさにこのサオルジオ戦役を取り上げている。そしてその中では、かなり早い段階からオネーリャ攻撃がフランス側の課題となっており、3月早々にはパリの公安委員会とニースの派遣議員たちが同時にオネーリャ攻撃を決定したと記されている(p14)。
 この決定にブオナパルテが関与していなかったと思われる理由について、著者らは脚注で示している(p22n4)。彼らはKochの本に書かれていることについて「深刻なミス」と明白に記述。公安委員会にジェノヴァ領の通行を求めると決めた会議で、ブオナパルテがサオルジオを迂回する作戦を提案したとされている点について、「出版されたものと未出版のナポレオンの書簡から推測するに、ブオナパルテは2月8日にはニースではなくマルセイユにいた」と記している。
 さらに3月上旬に彼がニースを訪れた点についても、あくまで沿岸部の視察が目的であり、ブオナパルテがイタリア方面軍の指揮官として記されている公式の記録は3月20日まで現れないと指摘。また3月中にブオナパルテがニースを離れた様子はなく、彼が前線に赴いて陣地を視察した可能性についても疑いを示している。要するにセント=ヘレナのナポレオンが記していた内容について、それを裏付けるような古い史料は見当たらない、というのが著者らの見解だ。
 では作戦中にブオナパルテが3個旅団を指揮していたという主張の方はどうだろうか。これについてKrebsとMorisはそもそも真っ当に取り上げてすらいない。彼らの文章を読むと、オネーリャ師団を率いていたのはあくまでムーレ将軍として記述されており、ブオナパルテの名前は本文中には全く姿を見せないのだ。
 辛うじて出てくるのは脚注のみ。それも意味のある引用は2ヶ所にとどまる。1つはガレッシオを占拠した時点でのマセナの行動に関するKochの指摘を批判している部分で、派遣議員と一緒にブオナパルテ将軍が行動していたと指摘している部分(p38n1)。もう一つはガレッシオを出立した派遣議員とブオナパルテがどのような日程でニースへと戻ったかについて説明している部分(p59n1)だ。どちらを見てもブオナパルテが派遣議員と一緒に行動しているのは分かるが、彼が具体的に部隊を率いていたという記述にはなっていない。
 要するに著者らはセント=ヘレナにおけるナポレオンの証言を自分たちの著作内では採用していないわけだ。実際の戦いから20年以上後に南大西洋の孤島で記された回想録を裏付けるような同時代史料がない以上、回想録の記述を無批判に取り入れるのは拙いという判断だろう。そしておそらくこの判断は妥当。人間は記憶違いや勘違いをしでかし、またしばしば嘘をつく存在だ。一個人の数十年後の孤立した証言と、実際に文章として残されている同時代史料のどちらを信用するかと言えば、後者を選ぶのはごく当たり前だろう。

 この書籍の出版によってこの問題は決着がついた、と言えれば話は簡単だったのだが、残念ながらそうは行かなかった。確かにナポレオンがセント=ヘレナで述べた、公安委員会が決定を下す前にブオナパルテが会議でジェノヴァ領を通った迂回作戦を提案したという話については、この本の後でなお明確に肯定する研究者は見当たらなくなった。ブオナパルテがイタリア方面軍に赴任する前から、そうした計画を公安委員会や派遣議員が打ち出していたのだから、当然と言える。
 だが、会議での発案がないとしても、ブオナパルテが作戦にかかわった可能性はゼロではない。それに実際に作戦が遂行される際に彼が何らかの関与をしていたことだって考えられなくはないだろう、と食い下がる人がいたのだ。それも同じフランス国内の研究者の中に。彼がいったいどのような論拠に基づいて「ブオナパルテが1794年戦役で大きな活躍をした」説を唱えているかについては、長くなったので以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント