色々あってナポレオニックを取り上げていなかったが、そろそろ何か書いておこう。
ナポレオンのキャリアの中でも最も無視されているのは1794年だろう。前年のトゥーロン攻囲は彼が名を挙げた戦いとして紹介されているし、翌年にはヴァンデミエールのクーデター鎮圧での活躍がよく語られている。
英語wikipedia ではこの2つの出来事が並んで紹介されており、1794年の事象については各項目内でごく短く言及されるにとどまっている。
日本語wikipedia はさらに短い記述で終わっている。
実際にブオナパルテはこの年、イタリア方面軍の砲兵指揮官に任命されていた。彼が何をしていたかについては
こちら でごく短く書いているが、短すぎて具体的に何をしていたのかはほぼ不明。ナポレオンが後にセント=ヘレナで話した内容をまとめた
こちら の方が、内容的には詳しい。1794年にあった出来事について、彼自身はII章とIII章の部分で説明している。正直、ナポレオンの1794年の戦争について触れている文章の大半は、どれほど詳しくてもここで語られているレベルまでにとどまっている。
とはいえこれはあくまで当事者の1人が20年以上後に、ろくに史料に当たることができない状況で語ったものである点に注意すべき。実際に何が起きたかについては別途調べる必要があるはずで、実際ナポレオン戦争研究が盛んに行われていた19世紀末から20世紀初頭にかけての時期にはそうした点について調べた人もフランスにいた。ただしその調査結果についてはあくまでフランス語の文献にまとめられているだけで、しかも内容がマニアックなためフランス国内でも必ずしも広く知られているとは言い難い。
1794年、ブオナパルテが従軍していたイタリア方面軍はいったいどのような戦いを行っていたのか。ナポレオンの証言の中ではII章で触れられている同年春の戦役について調べてみよう。
この春に行なわれたのはフランス軍による
サオルジオ 攻略戦だ。ピエモンテ(サルディニア王国)との戦争状態に入ったフランスは1792年にまずサヴォワとニース伯領を占拠したが、その後この方面では戦線が膠着していた。フランスと連合軍はアルプス山脈を挟んで対峙している格好であり、アルプスを越えて攻め込むのはどちらにとっても容易ではなかったのだろう。
ただしニース伯領については連合軍が伯領の北部に残っていた拠点を保持し、フランス軍に対する抵抗を続けていた。サオルジオを中心に東西に延びるこの防衛線に対し、フランス軍は1793年6月(つまり南仏での反革命反乱が広まる前)に一度、攻撃を仕掛けている。しかし山岳部に連なるピエモンテ軍の防衛線は頑強であり、
正面からの攻撃は多大な損害を出して撃退された 。さらにその後、アルプス方面軍やイタリア方面軍はトゥーロンやリヨンの反乱鎮圧に動員され、しばらく連合軍相手に攻勢に出ることができない状態が続いた。
状況が変わったのは1794年になってからだ。南仏の騒動を抑え込み、公安委員会率いる恐怖政治によって内政の箍を嵌め直したフランスは、再び外国に対して攻撃に出ようとする。ベルギー方面やスペイン方面でもフランス軍の反撃が始まったが、同じくイタリア戦線でも雪解けが始まるか始まらないかのうちに攻撃に出る方針が打ち出された。
このあたりについてセント=ヘレナのナポレオンは以下のように述べている。彼は1794年の1~2月を地中海沿岸の武装化に費やし、3月にイタリア方面軍の砲兵指揮官として司令部のあるニースに着任した。その後、フランス軍の戦線について視察を行った彼は、前年に行なわれたサオルジオ攻撃が無謀であったことを確信。山岳部では攻撃側が常に不利であり、むしろ敵に攻撃を強いる方が大事であるとナポレオンは述べている。
そこでナポレオンが提案したのは迂回作戦だ。ピエモンテ軍右翼は防御が固かったが左翼には隙があったため、そちらから回り込むことでいくつかの山中の拠点(現在のフランス―イタリア国境にある山や峠)を奪い、さらにピエモンテ軍の背後を脅かしてその連絡線を断ち切るという計画だった。サオルジオの北方、ピエモンテへ至る道筋にはテンダ(フランス語だとタンド)峠があり、ここを塞がれるとピエモンテ軍は本国から切り離され、孤立してしまう。そのような事態に敵を追いこむ作戦と言える。
この計画にはもう1つの狙いがあった。オネーリャの占拠だ。この港町はピエモンテ領で、そこには多くの私掠船が集まっていたという。彼らはジェノヴァからニースへ、さらには南仏へ至る物資輸送船を襲撃しており、そのためにイタリア方面軍のみならず南仏全域で様々な物資不足が発生していた。オネーリャを奪取することで私掠船の活動拠点を奪えば、ジェノヴァ港からフランスの支配地域へ至る海岸線の航行が確保できる。
問題は国境線にあった。オネーリャを含むオネーリャ公領はサルディニア王の領地であり、フランスと戦争状態にあったのでそこを攻めることに問題はなかった。だが一方でオネーリャ公領はその周囲をジェノヴァ共和国にも囲まれていた(
こちら は17世紀の地図)。陸上から攻撃する場合、オネーリャに到着するにはどうしてもジェノヴァ領を通る必要がある。中立だったジェノヴァ領を
「道路として使う」 ことには当然ながら政治的な問題が発生し、単純に軍事的な合理性だけで決めるわけにはいかなかった。
これについてナポレオンは、ピエモンテ軍も過去にジェノヴァ領を通過していた例があること、さらにフリゲート艦モデスト号の事件を取り上げ、ジェノヴァの中立を先に侵害したのは連合国側だとの理屈を紹介している。モデスト号の事件とは、1793年にジェノヴァ湾内にいたフランス軍のモデスト号を英艦が襲撃して拿捕した件である。中立国の港でこうした行為が行われたことについてジェノヴァ共和国は十分に強い態度には出なかったため、フランスとの関係が一時悪化した。こうした敵側による過去の中立侵害の例が、今度は自分たちの中立侵害を正当化するというわけだ。
作戦が始まったのは4月6日(p67)。ナポレオンによれば部隊は5個旅団で構成され、最左翼の1個旅団をマセナが率いてテナルダ山に布陣し、2つ目の旅団はその右翼のグランデ山に展開した。残る3個旅団はナポレオンが直接率い、オネーリャへと行軍した。フランス軍はオーストリア軍を破ってこの町に入城し、逃げ出した連合軍を追撃した。迂回するフランス軍の前に戦力をほとんど置いていなかった連合軍は各所で敗走し、ピエモンテ領内まで引き下がった。
左翼を迂回された格好になったサオルジオの防衛線は窮地に陥った。マセナ率いるフランス軍が山を越えて攻め込んできたのに対応できなかった彼らは4月下旬にサオルジオを放棄。さらにテンダ峠の背後にまで後退を強いられた。マセナの左翼にいたマッカール将軍の師団が正面から進んでこのアルプスの稜線まで到達し、ニース伯領の北半分もフランス軍の手に落ちた。軍の損害は少なく、またこの作戦の成功は「軍内でのナポレオンの評判を高めた」(p70)と、セント=ヘレナのナポレオンは自画自賛している。
またナポレオンは自身が指揮を執っていた砲兵部隊も活躍したとしている。軽量の3ポンド砲はラバの背に載せて運び、またそりを使った大砲の運搬も試みられた。さらにナポレオンによれば「24門の大砲がこの山岳部でのあらゆる作戦において軍に追随し」(p71)、味方や敵の士気に大きな影響を与えたという。要するに作戦立案のみならず、作戦行動中の軍の指揮にも、また彼自身が統率している砲兵部隊の活躍という点においても、ブオナパルテ将軍は大活躍だった、というのがナポレオンの主張だ。
では1794年のサオルジオ戦役において、計画は実際にどのように立案され、どう実行されたのだろうか。それについては以下次回。
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