量と防御と

 ロシアのウクライナ侵略がうまく行っていない理由として、ロシア側の問題点は色々と指摘されているが、最近になってウクライナ側の善戦している理由について記した記事が出てきた。こちらのツイートでものすごく簡単にまとめられているが、大きな力点の1つがA4の「軍経験・戦闘経験のある市民を大量に確保」の部分だ。
 2014年にクリミア半島を奪われた際に、軍が機能不全に陥っていたウクライナでは「市民による民兵集団」が各地で組織されたという。つまり「地元の名士が国家に代わって武装部隊を育てるという点で、ほとんど中世的な性格」の動員が行われたようだ。その後で軍改革が進んだものの、その際にはこれらの民兵組織が正規軍や国家親衛軍(内務省組織で警察の支援、重要拠点の防衛にあたる)に編入され、代わりに地域防衛や国民保護にあたる地域防衛隊が設立された。このような対応がもたらした最大の成果が、軍隊経験のある兵力の増大。侵攻前の時点でその数は50万人に達し、実戦経験者も40万人いるそうだ。
 ナポレオン戦争に詳しい人なら、この対応を聞いてプロイセンの軍制改革を思い浮かべるだろう。ティルジット講和後に軍制改革を委ねられたシャルンホルストは、クリュンパー・システムと呼ばれる制度を導入。総兵力を制限されていたプロイセン内で実働戦力を増やすため、徴兵後に短期間だけ訓練し、その後は軍から除隊させて新しい徴集兵に入れ替えるというシステムを作った。この方法によって平時の戦力を一定数に抑制しつつ、戦時には急激にその数を増やすことが可能になったわけだ。1813年にプロイセン軍が急速な兵力拡大に成功したのも、このシステムで訓練した兵士候補を数多く抱えていたのが理由だという。
 ウクライナがプロイセンのようなシステムを採用したのは、それ以前に行なった米軍式の「軍事トランスフォーメーション」が実現不能であることが判明したためだそうだ。「高度に訓練された常備軍によるコンパクトで機動性・柔軟性に優れた部隊を高度な指揮通信システムと精密誘導兵器により効率的・高火力で運用する」という米軍方式は、2014年の危機に際してうまく運用することができず、代わりに採用した「中世的な性格」を淵源に持つ19世紀プロイセンのような方策が、結果的にロシアを撃退するのに役立っている。戦争において効果的だった対策が「人員リソース」、つまり兵士の量の確保だった、というわけだ。
 記事の最後では、今回の戦争を踏まえてこれからの戦争がどうなるかについて考察をしている。米軍が目指したような、高い技術力に基づく装備と少数のプロフェッショナルな軍隊による短期の機動戦という形ではなく、ウクライナ戦争のように敵の弱点を攻撃しながら時間をかけてその戦力をすり減らす方法こそが最適解だった場合、少数のプロフェッショナルな常備軍だけしか持たない軍は「戦力回復できるのか」という課題に直面する。実際、こちらでも指摘しているが、装備不足でも兵力に余裕のあるウクライナが、装備では優れているが兵力が枯渇しつつあるロシアに対して大きな損害を与えているのが現状。大切なのは質の高い装備より兵の数、という風に見えてしまう。
 そもそも21世紀には少数の高度な訓練を受けた常備軍による戦争が広まる、という想定自体、果たして正しかったのだろうか。例えばSEAD(敵防空網制圧)やDEAD(敵防空網破壊)を実行できる空軍なんて、米軍以外に存在するのかという疑問が、今回の戦争で浮かび上がっている。ロシア軍だけの問題ではない。米国以外のNATO諸国空軍だって、実はそんな能力は持ち合わせていないとの指摘もある。多くの先進国が目指した「高度な装備と訓練を誇る少数精鋭の常備軍」なるものは、実は米国以外では単なる幻だったのではないか。
 そうなると真面目に考えなければならなくなるのが、「戦争は再び大衆化するのだろうか」という問いだ。もしこの問いの答えがイエスなら、多くの国はこれから戦争に備えて徴兵制を考える必要がある。高度な装備を効率的に使いこなす、などという贅沢は世界最大の経済大国にして軍事大国にしかできない芸当なのだとしたら、それ以外の国は自分たちのできる範囲で戦う能力を高めるしかない。若者人口が減っている先進国にとってはかなり厳しい条件になってしまうが、生き残りたいのならそうすべき、と考える国が出てきてもおかしくはないだろう。フランス革命からナポレオン戦争期を経て第二次大戦頃まで続いた「戦いは数だよ兄貴」の傾向が、今また復活しているのかもしれない。

 「量か質か」という問いに加え、もう一つ今回の戦争で言及されているのが「攻撃か防御か」だ。こちらのツイートでは「少なくとも当面のところ、21世紀のテクノロジーは防御側優位にシフトしているのだろう」と見ている。この1ヶ月強の間に攻撃側に立ったロシアが大損害を被り、防御に回ったウクライナがロシアの戦争目的達成を見事に邪魔しているのを見る限り、そうした感想が出てくるのも理解できる。
 ツイートが引用しているReturn to Gettysburg: The Fifth Epochal Shift in the Course of Warという記事では、過去の戦争形態に5つのサイクルがあったとしている。1つ目の「歩兵の偉大なる時代」は3000年続いたそうで、戦争の行く末は剣や槍をふるう筋肉の力によって決まった。続く第2のサイクルはハドリアノポリスの戦いに象徴されるような騎兵優位の時代で、イスラム軍の騎兵、モンゴルの騎馬弓兵、西欧の重騎兵などが戦場を席巻した。第3のサイクルは火薬兵器によって再び歩兵が力を取り戻した時代だ。
 表題に出てくるゲティスバーグの戦いは第4のサイクルの始まりを告げるものであり、機動力を火力が上回る時代の到来を告げた。スムーズボアからライフル銃へのシフトによって火力の射程や致命度、精密さが上昇し、それが機動力の相対的な劣勢と防御側の優勢を生み出した。機関銃や長射程の大砲の登場はさらにその動きを加速し、20世紀初頭の第一次大戦では両軍が塹壕にこもって防御側の優位を引き出そうとする取り組みが中心になった。
 しかし軍事技術の変化が戦争に及ぼす影響を各国政府や軍が理解するには時間を要した。第一次大戦(の例えばソンム)であれだけ多くの死体を積み上げた後になって、ようやく各軍は防御の優位と、それに対する対応策検討に本腰を入れるようになった。この方法は内燃機関の活用などによって押し進められ、第5のサイクルでは火力から機動力が再び優位を取り戻すようになった。
 問題は現在だ。火力の正確さはさらに増しており、それが再び防御側の優勢をもたらしているのではないか、とこの記事では指摘している。もしウクライナの戦争がゲティスバーグの再来であり、第5サイクルの終了を告げる狼煙なのだとしたら、今度はその問題をどう克服し、防御側の優位をどうやって覆せばいいのかが課題となる。この記事が提示している方策は3つ。火力を増して防御側をすりつぶす、部隊を分散させて防御側の火力を分散させる、そして空中機動を使い空から敵の背後へと機動する、というものだ。ただ、いずれも問題点を含む策であることは認めており、実際に何が最も効果的な対応なのかが見えてくるにはまだ時間がかかるのだろう。
 というのがこの記事の大雑把な内容なのだが、正直内容については色々と異論がある。まずここで紹介されているサイクルのうち、第1から第3までのサイクルはそもそも「攻撃か防御か」という切り口ですらないし、また視点が欧州中心的すぎる。ハドリアノポリスの戦いを騎兵の勃興のきっかけと見るのは、さすがにいくら何でも古すぎる観点ではなかろうか。歴史的に軍事技術がどのような影響を及ぼしたかについては、むしろTurchinらの指摘の方が妥当性があるように思える。
 そもそも「攻撃か防御か」はともかく、「機動力か火力か」という問題意識はかなり現代寄りの発想ではなかろうか。ナポレオン戦争期には兵力をコルドンのように分散させるか狭い範囲に集中させるかという切り口での議論はなされていたが、機動力と火力の関係についてはほとんど論点になっていた様子はない。つまりこの記事に出てくる切り口は、いかにも古い歴史をもっているかのように見せかけてはいるが、実際は極めて「現代的」な論点なのだと思われる。無理にゲティスバーグや「第5のサイクル」などという議論を持ち出さず、20世紀以降の話に絞った方が分かりやすかったのではなかろうか。
 それに比べると最初に持ち出した「質か量か」の問題は、もっと過去まで遡ることができそうだ。それこそ三十年戦争でヴァレンシュタインやグスタフ=アドルフが行った大量動員よりも、後期の将軍たちが展開した少数だが効率的な軍の方が効果が高かったという説なども、その一例だろう。もちろんウクライナ戦争を単純に「量のウクライナvs質のロシア」と割り切ることはできない。ロシア軍の質は、これまでの報道を見る限りとても高くは見えないからだ。それでも「機動力か火力か」よりは普遍的な課題として見ることは可能だろう。

 他に今回の戦争については「原油価格とロシアの攻撃性が相関しているのでは」との説や、「戦争とニセ科学には逆相関があるかもしれない」という(あまり定量的な分析はしてなさそうな)説などが出てきている。ロシア軍には少数民族が多いとの説に対しては、それほど偏ってはいないとの反論もある。この戦争に関連する件については、これからもまだまだ色々な見解が出てくるだろう。
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