Journal of Social Computingに掲載された
「集合的計算能力の進化」特集 について、今回が最後。これまで
Seshatのデータ を使って分析した
「2つの閾値」 に関連する論文を紹介してきたが、今回は2つ目の閾値、つまり「情報処理の閾値」に届いていない社会を対象とした論文だ。閾値どころか文字すらなかった社会であっても、集合的計算能力についての分析は可能だし、それもなかなか面白い話が導き出されることが分かる。
トリポリエの大規模集落が姿を現したのは紀元前4100~4000年頃であり、同3650年頃にはその大規模集落も姿を消した。トリポリエに存在したいくつかの大規模集落は文化的には共通する特徴を持っていたが、筆者によるとそれらは決してまとまった1つの政治体ではなく、独立したいくつもの政治単位だったという。要するに複数の大規模集落がまとめて1つの政治体だったのではなく、個々の大規模集落がそれぞれ1つの政治単位だったわけだ。それぞれの人口規模は5000~1万5000人であった。
政治体の領土はどのくらいだったか。筆者は例えばマイダネツケの大規模集落が持っていた領土は半径4.1キロに及び、面積は2万7150ヘクタールに達していたと推測している。このうち200ヘクタールは森林、2万3500ヘクタールは牧草地、そして3450ヘクタールは耕作地として使用されていた。大規模集落の階層構造についてはFig. 5に記されているが、個々の世帯から近隣、全集落の4分の1、そして集落全体という階層構造が一方にあり、また親族関係でつながる階層もあったようだ。筆者によると個人は少なくとも5つの「アイデンティティ」に属していたという。
トリポリエの特徴は、前にも記したがいくつかのレベルで大きな建造物が存在し、それが一種の政府的な役割を果たしていた点だ。この論文でもこうした建造物を意思決定の場と見なしている。こうした建物は最大で4つの階層に分かれており、下層のものは150戸の世帯を、最上位のものだと集落全体にあたる1750戸を統合していたと思われる。最後のものは最大700平方メートルの広さがあり、儀式を含めた会合が行われていたと見られる。
トリポリエの社会では通貨が使われていた可能性がある。「トークン」と呼ばれる小さな円錐形の陶磁器がしばしば発見されており、これが貨幣のような役割を果たしていたのではないかと思われている。具体的な証拠はないようだが、大規模集落以前の紀元前4450年頃からトークンは存在していたようで、貨幣交換システムは既にそのころから存在していたのかもしれない。もちろん、トークンはそうした役割を果たしていたのではない可能性もある。
トリポリエのインフラとしては大規模集落の道路、及び集会などに使われたと見られる巨大な建造物が代表例としてある。情報システム(テキストなど)の存在は見当たらないが、集落ごとに特徴的な装飾や、あるいは犬などのリアルなモチーフを描いたものが存在するらしい。
こうしたトリポリエの特徴を踏まえ、筆者はそれらを具体的に数値化する作業に取り組む。Seshatが行っていることをトリポリエの大規模集落に応用する格好だ。まず人口だが、推測値ではなく集落の面積を使って計算している(Fig. 7)。大規模集落の閾値とされる100ヘクタールを超えるような集落が生まれるのは紀元前4000年頃で、人口増がピークに達したのは同3750年頃となる。ただ、小さい集落も一方では存在しており、中央値はあまり大きな変化は見せていない。大規模集落内の人口については、Fig. 8でマイダネツケの人口推移が推測されている。
人口集積のために耕作地との距離が離れ、それが利便性を下げたと思われるが、ソリを使ってその問題は解決されたという。また新しい窯の発明により効率的に土器がつくれるようになったのも人口の集中を支えた。大規模集落自体も非常に計画的に作られたようで、まずは外周の囲いが作られ、そして外部の方から順番に居住が始まり、それから内側に進むように集落がつくられた。集落によっては後から建てる家のために区画した場所が設けられているなど、所有権も決まっていた様子がある。
このように人口集積が進んだ原因ははっきりしないが、この集落の崩壊に至る経緯は割と明らかだ。前にも紹介した通り、最初は複数のレベルで存在していた大規模建造物が、やがて最大のものに集中するようになっていったことが判明している。何らかの意思決定過程の変化を示しているのだろう。それ以外にも変化を示しているのが陶磁器の装飾。途中まではイノベーションと単純化が同じ度合いで起きていたが、後にイノベーションより単純化が増え、これは貧困化が進んだことを示しているという。また密閉式や半密閉式の食器類が減り、大勢が集まるタイプの宴会が減っていることを示唆している。
以上、集落サイズ、集落数、大規模集落、環状道路、陶磁器の様式と技術、窯、火打石製造、食器や埋葬など、様々なデータを時代ごとに並べて主成分分析を行ったのがFig. 12だ。そこで見つかった最初のベクトルには人口や専門化した生産、ソリの運搬能力などが含まれており、複雑さの度合いを示すと考えられる。一方、2つ目のベクトルに含まれるのは集団ではなく家庭で使われる食器や個別の埋葬を含んでいる一方、大規模集落の不在などを示している。この2つのベクトルが時代に応じてどう推移したかはFig. 13に示されている。
見ての通り、大規模集落が成長する過程では複雑さのベクトルが急増している一方、それらが頭打ちになったところで第2のベクトルが急増している。論文ではこの第2のベクトルをseparation、つまり分離度合いを示すベクトルだとしている。第1のベクトル上昇は集合的計算能力の向上を示しているが、第2のベクトルはむしろその能力低下を示しているのだろう。もし文字などが生まれていれば、そうした分離ベクトルを弱めることもできたかもしれないが、トリポリエ文化ではそうした水準まで情報処理能力が高まることはなかった。
論文では大規模集落が急速に発展したのは、そうした社会にメリットがあったからだと推測している。実際に栄養面でも大規模集落にはメリットがあったらしい。だが大規模化、複雑化がやがて頭打ちになった一方、集団ではなく家庭内での宴会増加、大規模建造物に見られる意思決定過程の中央化などが進み、大規模集落での集合的計算能力が打ち消されていったと結論づけている。
意思決定過程の中央化については前にも書いた通り、一種のエリート内競争が起きていたのではないかと推定されるのだが、この論文ではそれと別に個々の家庭が自分たちの中での宴会に力を注いでいたという指摘が面白い。集団の構成員が集団のための行動(利他的行動)より自分たちのための行動(利己的行動)へと力点を動かしていくところは、
まさにアサビーヤの低下を示す 事例と考えられる。大規模集落はこの時代における一種の「帝国」であり、その帝国中心部では次第にアサビーヤが衰退していった結果、共同体の皆と一緒に宴会を行なうのではなく、家庭内でのみ消費を行なうようになった、ということだろう。
アサビーヤの代わりに
限界利益の理屈 を持ち出すこともできる。第1のベクトルが上昇している間、限界利益は十分に高かったため、人々は複雑さを高めるために互いに協力することができた。だがこのベクトルが頭打ちになったところで収穫逓減が明白になり、さらに複雑さを高めようと投資を増やすメリットが失われていった。各家庭は複雑さを増すために努力するより自分たちで利益を消費する方に舵を切り、最後には個々の成員が
経済的に合理的な選択として大規模集落を崩壊させた 、という流れだ。
いずれにせよこうした古い時代についてもSeshat的なデータ化とそれを使った統計分析が可能である点を示した点で、この論文は実に面白い。こうした取り組みはぜひとも色々なところで展開してもらいたいものだ。
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