前回の続き。
II.
その間、イタリアでは4月に戦役が始まった。モンテノッテ、ミレシモ、及びモンドヴィの戦いはサルディニア王にケラスコで休戦協定に署名させ、彼を連合国から脱落させた。オーストリア最高軍事会議がボーリュー将軍の才能と評判に頼っていただけに、彼らはこの知らせを聞いて驚きを募らせた。大公はすぐ戦闘状態の再開を通知すること、そしてフランス軍がアルプスの彼方にある軍を増援するのを妨害するためか、あるいはイタリアの惨事から人々の関心を引き離す陽動効果を狙ってライン河での作戦を始めるよう命じられた。ナポレオンが2月にパリを出発した時、サンブル=エ=ムーズ軍が4月中に戦役を始めるとの約束を得ていたが、この軍は5月末になっても冬営地にとどまっていた。イタリア方面軍が得た全ての勝利、全ての前進は、ライン河沿いのフランス軍による作戦開始の必要性をより緊急かつ賢明なものにしていた。その時は様々な口実によって延期されていたが、とうとう敵の軽率な行為が、フランス政府が命じる叡智を持ち得なかったことを成した。パリにいたモローはぎりぎりでストラスブールにたどり着くことができた。モーゼル川、ザール川、ムーズ川に宿営していた全ての兵たちは活動を始め、戦闘状態は6月1日に再開された。その間にロディの戦い、ボルゲットーの戦い、マントヴァの包囲、ヴェローナへフランス軍司令部が、そして彼らの前哨線がティロルの山々へ到着したという知らせが届き、ウィーンの宮廷による手配に変化を生ぜしめた。この全速力で前進している[イタリア方面]軍は、その進軍を妨げる何の障碍もなかったと言われていた。彼らの大胆な行動を阻止することが重要だった。ヴルムゼルは上ライン軍から引き抜いた3万人の兵と伴にイタリアへ進み、ティロル、カリンティア、カルニオラで再編中であるボーリュー軍の生き残りの予備として行動するように、そしてマントヴァが落ちる前に要塞解放のため行軍し、その地の維持が危険に満ちたフランス征服よりも重要なロンバルディア世襲領を再征服するようにとの命令を受け取った。皇帝はライン河沿いの2つの軍を大公の指揮下にまとめ、彼に戦闘を再開せず休戦を続けるよう命じた。しかしこの命令は遅すぎた。即ち、戦闘が再開されて僅か2時間後に命令が到達したのだ。
ヴルムゼルの分遣によって弱体化した大公は征服のために思い描いていたあらゆる計画を捨て、ライン渡河を防ぎドイツを守ることに彼の野心を限定した。彼の麾下には以下の部隊があった。1つ目は、砲兵将軍ヴァルテンスレーベンと、クライ、ヴェルネック、ホッツェ、グラバー、コロレード=メルス、シュターデル、そしてリント中将麾下の下ライン軍。この部隊は101個歩兵大隊の7万1000人と、139個騎兵大隊の2万2700騎、計9万3700人から成っており、その中から彼はエーレンブライトシュタイン、メンツ、マンハイムの守備隊を供給した。2つ目は上ライン軍で、ヴルムゼルの出立後は砲兵将軍ラトゥールと、シュタライ、フレーリッヒ、フュルステンベルク公、ロイス、リーシュ、そしてコンデ公の麾下にあった。この部隊は58個歩兵大隊の6万5000人と、120個騎兵大隊の1万8000騎、計8万3000人から成っていた。かくして5月時点でライン河沿いにあったオーストリア軍の合計は17万6700人に達していた。しかし、最初に分遣された6000人を計算にいれなくても、3万人をイタリアの軍に送り出したことは大公の軍を15万人にまで減らしていた。
2つのフランス軍は双方合わせて15万人以上の兵力があった。サンブル=エ=ムーズ軍は歩兵6万5000人、騎兵1万1000騎、計7万6000人。ラン=エ=モーゼル軍は歩兵7万1000人、騎兵6500騎、計7万7500人だった。前者は3つの軍団に分けられていた。コローとルフェーブル師団から成る左翼はクレベール麾下にあり、ライン右岸のデュッセルドルフにいた。指揮官ジュールダンは、シャンピオネ、グルニエ、ベルナドット師団から成る中央と伴にフンズリュックにいた。マルソー麾下の右翼は、彼の師団とポンス師団から成っていた。ボノー将軍が予備を指揮した。ラン=エ=モーゼル軍は3つの軍団から成っていた。ボーピュイとデルマ師団で構成される左翼はドゼーが、デュエームとタポニエ師団から成る中央は[グーヴィオン=]サン=シールが、ラボルドとタロー師団から成る右翼はフェリーノが指揮を執った。ブールシエは予備騎兵を率いた。
以下、次回。
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