ワールドカップ特集はこのあたりで終えて、またナポレオニック関連を。google bookで閲覧できるMemoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III"http://books.google.com/books?id=JW0uAAAAMAAJ"という本の中で、ナポレオンが1796年のドイツでの戦役について色々と説明をしている(p277)。せっかくなのでそこに記されている戦役の流れを紹介しておこう。
1796年におけるドイツでのサンブル=エ=ムーズ軍及びライン軍の作戦概要
I.
プロイセンは1795年4月に共和国と和平を結んだ。続いて5月17日に署名された協定で、交戦国の軍が通過を強いられる地方において追求する行動に関する規則が作られた。しかしこの協定は多くの議論を引き起こしたため、8月20日にベルリンで、交戦国のどの軍も通過できない線をヴェーゼルからラインへとチューリンゲン山地の境界線に沿って敷くべきだと規定された。プロイセン王と、このプロイセン同盟に忠実なドイツ諸侯の領土のうち線の南側にある部分は、中立となる。にもかかわらず交戦国の軍は、彼らが必要とする補給に対する支払いをすれば自由にこの線を越えられる。ただし、その内部に何らかの陣地を構築することは認められない。
1795年の夏の間、オーストリア軍はライン河で活動する2つの軍を持っていた。一つはクレアファイト元帥麾下の下ライン軍であり、他方はヴルムゼル元帥麾下の上ライン軍だ。前者に対しフランスはジュールダン将軍麾下のサンブル=エ=ムーズ軍を、2番目の相手にはメンツ[マインツ]の対城壁線を占拠しているピシュグリュ麾下のライン軍を対峙させた。プロイセンの離脱にもかかわらず、この戦役はオーストリア軍にとって有利に終わった。10月には彼らはメンツの対城壁線を突破し、多くの大砲を奪い、ピシュグリュをヴィサンブール線へと撃退していた。敵対行為は1795年12月23日に署名された休戦協定によって終わったが、そこでは以下のようなことが規定された。1つ、サンブル=エ=ムーズ軍は、デュッセルドルフの要塞とヴィッパー川左岸の前方3リーグの距離にある前哨線と、そこからライン左岸に沿ってビンゲン近くのナーエ河口付近まで、さらにそこからナーエ左岸を山岳部まで遡り、アルザスの国境まで到達し、ヴィサンブール線に沿ってそこからライン河をバーゼルまで通る線を占領する。2つ、オーストリア軍はボンの対岸でライン河に注ぐジーク川の左岸に前哨線を置く。ヴィッパー川とジーク川の間は中立地帯とする。オーストリア軍戦線はジーク河口からライン右岸に沿ってナーエ河口まで延び、そこからビンゲン近くでライン河を渡ってナーエ左岸を山岳部まで遡る。かくしてオーストリア軍はメンツとライン左岸のヴィサンブールまでの地域を占領し、そこから戦線はライン右岸へ戻り、バーゼルまで到達する。以上の取り決めが結ばれ、ジュールダンは彼の司令部をフンズリュックに、ピシュグリュはストラスブールに、クレアファイトはメンツに、ヴルムゼルはマンハイムに置いた。
冬の間、フランスとオーストリアは徴兵と軍への衣服供給に必要なことを何一つ怠らず、彼らを最良の状態に仕立てた。過去の戦役の成功はウィーンの政府に大いに希望をかき立てた。クレアファイトは呼び戻され、カール公が彼の代わりに指揮官に任命された。フランス政府はピシュグリュ将軍に懸念を抱いていた。戦役を終結させる不運を招いた彼の作戦はあまりに説明不能なものだったので、彼らは裏切りによるものと見なしていたが、しかしながら総裁政府は何の証拠も持たず、それゆえに彼らはあえてあまりに苦しい不審を抱こうとはしなかった。にもかかわらず彼らは最初の機会を捕らえてこの将軍を軍から取り除き、彼をスウェーデン大使に任命した。ピシュグリュはこの外交的な任務を拒否し、引退して自らの地所へ戻った。モローがライン軍の指揮官に任命され、1796年5月23日に彼は指揮権を執った。
以下次回。
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