皇帝の異常な愛情 下

 大越征服の口実を手に入れた永楽帝は、攻撃準備に際して敵の火薬兵器に対する対応策を軍に指示している。越嶠書という明代の書籍を見ると、巻之二の中に「聞黎賊[簒奪者である胡朝のこと]多備火器」という文字がある(102/160)。敵が多くの火器を持っていることを前提としたうえで、行軍の注意点や、「火器不能為患」つまり火器に対して抵抗できるような防具を作成するよう指示を出している。また明側の火器である神機銃について、外部に知られることのないように戦いの後は注意深く武器を集めることも求めている(104/160)。
 永楽帝が大越に持ち込んだ銃兵の数について記録は残っていない。Andradeは大越征服に動員された兵力21万5000人の大半が歩兵だったことから、おそらく2万丁の銃が侵攻に使用されたのではないかと想像している。この数はおよそ100年後に行なわれたチャルディラーンの戦いでオスマン帝国が動員したと言われている銃の数3000丁強(Firearms and Military Adaptation, p341)より圧倒的に多いし、約200年後の大坂の陣で徳川方が求めた銃の比率(8%)と比べてもあまり変わらない。明が当時としては先端的な火薬帝国であったことを示す一例だろう。侵攻に際して火器担当の「神機将軍」を複数人指名したのも、永楽帝が銃を重視した証拠だという(明実録)。
 明の侵攻に対して大越の兵は3万の兵で防衛線を敷いたが、明軍は「火銃」や弩などを使ってこれを打ち破った(明実録)。さらに明軍は北ベトナムの中心を流れる紅河まで到達。ここで艦船を建造し、大越の艦隊と戦った。史料には「造船置銃」(越嶠書、183/198、41/198)と書かれており、この銃とはおそらく当時の明艦船に一般的に積み込まれていた碗口銃だろうとAndradeは推測している。大越側も火器で攻撃してきたが、この戦いも明が勝ったそうだ。
 さらに明は紅河防衛線の要となっていた多邦城を攻撃した。明実録によると、明軍は一気に城壁を登ってこの城を攻略してしまい、防御側は「矢石不得發」、つまり迎撃する暇もなかったという。一方、大越側の記録である大越史記全書によると、明側は「積屍將輿城齊」、つまり死体を積み重ねながらそれでも城壁に登ってきたとある。
 城壁を越えてきた明兵に対し、大越側は象を繰り出して抵抗した。明兵は、明実録によれば「神機銃」を、大越史記全書によれば「火箭」を使って攻撃し、結果として「象退縮」つまり象の撃退に成功した。面白いのは明実録側にも「銃箭」という言葉があり、Andradeもこれをgun arrowsと翻訳していることだ。つまり明時代の神機銃は、Milemeteの絵のように火器を使って矢を撃ち出していた可能性がある。いずれにせよ、この戦いもまた明の勝利となり、永楽帝は銃を使って大越征服を達成。皇帝に対する征服結果の報告には「神機將軍張勝」も参加していた(明実録)。
 敗北に伴い大越から連れてこられた捕虜たちの中には、火器の扱いに長けたものもいたようだ。その一人が王族だった胡元澄(中国名は黎澄)。萬暦野獲編によると彼は明で工部官になったそうで、そこで「専司督造」、つまり大越式火器の製造を専ら司ったそうだ。大越で発明されたタッチホールの蓋が後に明の火銃に採用されたことは前にも指摘したが、もしかしたら彼の活動がそうした技術導入につながったのかもしれない。
 中には明の火薬兵器司令部に相当する神機営の創設にも大越人がかかわっているとの説もあるそうだ。この部局の設立について明史では、永楽帝が交阯(ベトナム)を平定した時に「得神機槍炮法特置神機營」と書いている。この文章だけ読むとまるで火器技術がベトナムから中国に伝わったように見えるが、それはもちろん逆。それに神機営の創設時期については別の論拠もあるそうだ。Andradeは1409年前後としたうえで、フランスのビュロー兄弟らが火器管理組織を作り上げた年(1435年)より明の方が早く、規模も大きかったとしている(p79)。
 神機営では火器の訓練も行われていた。面白いことに当時の中国では手銃で主に散弾を発射しており、装填の際に炸薬の勢いを弾薬に伝えるため「木馬子」と呼ばれるものを火薬の次に詰め込んでいたという。同時期の欧州でもこちらで紹介したchevilleやtamponと呼ばれる詰め物を使っていたのだが、こちらは主に大砲で使われていた手法だ。明実録でも「操習精熟」が必ず必要だとしているのは、こうした細かい手順があったためだろう。

 Andradeの文章には、さらに永楽帝のモンゴル遠征についての記述もある。明史によると、彼が皇帝として行った最初の戦役(1410年)ではモンゴルの阿魯台を相手に「神機火器為前鋒」、銃兵を前衛として彼を大いに打ち破ったことが書かれている。明実録にはもう少し詳しい経緯が載っており、「以神機鋭[銃?]當先」銃を前衛部隊にして攻撃を行い、「鋭發聲震數十里」銃声は数十里先まで轟いたという。敵は敗れ、明軍は「百數十人」を斬ったそうだ。
 この明実録の記述でさらに興味深いのは、銃声の後に「毎矢洞貫二人」、つまり全ての矢が2人の敵兵を貫いたと書かれている場面。もちろん「二人」の部分は保元物語に出てくる為朝の逸話と同レベルの誇大表現だと思った方がいいのだろうが、矢を使ったというところは興味深い。大越の多邦城でも銃を使って矢を放っていたと思われるように、北方でも火薬を使って矢を撃ち出すような使い方がなされていたのだろう。明代の中国には神機箭という武器があり、その原型がこのあたりに存在するのかもしれない。
 次に永楽帝が北方遠征に踏み切ったのは1414年。この際には実に50万人ほどが動員されたそうで、永楽帝は自ら敵の痕跡を追撃する方法などを得意げに部下に披露していたようだ(Andrade, p81)。この戦役については、以前Hawの話を取り上げた際に紹介した金文靖公北征録の記録をAndradeも引用しているのだが、引用元としてこちらのサイトを使っている。ただ、引用の方法には疑問がある。
 引用元となっているのは6月の「初七日」に書かれている部分だが、Andradeの英訳(p81)のうち、どう見ても原文には見当たらない文章がいくつも混じっている。例えば明側の射撃によって「数百人のモンゴル兵が倒れ、モンゴルの隊列に混乱と無秩序を生み出した」という部分だが、原文を見る限り数百という数字は永楽帝が「以精鋭者數百人前驅」、つまり精鋭部隊数百人を前進させたという記述しか見当たらない。Andradeの文章を読んでも、この戦いについては誤解しかねないのではなかろうか。
 金文靖公北征録を見るなら、まず山上にいたモンゴル軍が降りてきて攻撃を仕掛けたが、「火銃四發」で驚いて馬を捨てて逃げた。その後で彼らはまた山上に集まり、押したり引いたりした。夕方になって永楽帝はまず精鋭部隊を、続いて火銃部隊を前進させ、そこでまたモンゴル軍と戦った。火銃をひそかに発射した後で精鋭部隊がモンゴル軍相手に奮戦し、多数の損害を与えた。そして勝利を記念してその地を「殺胡鎮」と名付けた。以上がこの戦闘の経緯だ。
 同じ金文靖公北征録の11日の記録でも銃の話に触れている。こちらについてはAndradeの英訳(p81-82)にも違和感はない。そして1422年の遠征の際に永楽帝が出した命令(p82)についても、元ネタである明実録の記述とそれほど違っていない。なおこの永楽帝の命令は以前にも紹介しているが、この戦役も、またその後の戦役でも、モンゴル軍との交戦はかなわなかったようだ。遊牧民は無理に永楽帝の主力と戦おうとはしなくなっていた。
 永楽帝の死後の明軍は平和に慣れ、土木の変では逆に遊牧民に追い詰められた。明の火器製造や開発は永楽帝以降は停滞し、逆に欧州が15世紀半ばには急速な火器の発展期に入る。永楽帝の時代は、火薬の分野で中国が世界で最も先行していた最後の時代だったのかもしれない。
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