皇帝の異常な愛情 上

 Andradeが2019年に面白い文章を書いていた。How Yongle learned to stop worrying and love the gun、つまり「永楽帝は如何にして心配するのを止めて銃を愛するようになったか」というヤツだ。もちろんこの映画のパロディである。グレゴリー・クラーク以外にもダジャレを使う研究者はいるわけだ。
 題名の通り明の永楽帝が話の中心。彼の時代に明が火薬兵器をどう使いこなしていたかについては、以前こちらでAndradeのThe Gunpowder Ageからいくつか紹介している。1つは1414年にモンゴル相手の遠征で行われた戦闘であり、もう1つは1423年の永楽帝の命令。彼の時代に色々と火薬兵器が使用されていたのは事実だ。
 そもそも明といえば建国者の洪武帝がまず火器の使用にかなり積極的に取り組んだことで知られている。一例が洪武大砲。加えて彼の時代には兵の1割に銃を持たせていたそうで、Andradeによれば明歩兵のうちおよそ15万人の銃兵がいたことになるという(p73)。以前にも指摘した通り、これらの数字は200年後の日本や欧州列強の数字と比べても遜色ないレベルの数字だ。
 初代の死後に甥から帝位を簒奪した永楽帝の時代においても、明の火薬兵器は世界の最先端にあった。だがAndradeによると、永楽帝は「当初から銃の支持者だったわけではない」(p72)。若いころから燕王として北平(北京)に駐留していた彼は、北方のモンゴルとの戦いで何度も活躍していた。しかしこのモンゴルとの戦闘経験は、彼が銃を軽視する一因になったのではないかとAndradeは推測している。モンゴルとの戦争で重視されるのは騎兵であり、歩兵ではない。また銃の使い方も変わってくる。
 この点、つまり乾燥地帯の遊牧民相手だと初期の火器は使い勝手が悪かったという説は、ChaseがFirearmsで指摘しているものと同じである。Andradeは著作の中でChaseの見解に異論を唱えているし、この文章の中でも後ほどChaseに反対しているのだが、一方で「Chaseの結論は一般化しすぎているものの、それでもいいところに気づいている」(p74)と評価もしている。
 Andradeだけではない。これまで紹介してきた中でも例えばRoyのように、ステップ地帯やそれに近い場所では騎馬弓兵の方が活躍していたと主張する例もあった。Chaseの言うInner Zoneでの火薬の発展遅れの原因が遊牧民にのみあるというのは言い過ぎだとしても、その面を完全に否定してしまうのも拙いのかもしれない。実際、前にも紹介したようにサファヴィー朝やムガール朝の銃兵は、西欧や日本に比べて最盛期でも随分と少なかった。環境によって初期の火薬兵器のメリットに差があったと考えるのはおかしくはないだろう。

 元はあまり火器を支持していなかった永楽帝がその重要度に気づいたのは、彼が甥からの帝位簒奪を決めた後だ。燕王だった彼と2代目建文帝との争いは数年続いたのだが、1400年12月(Andradeは1401年1月としている)の東昌の戦いで彼は大敗を喫した。火器を構えて待っていた盛庸の軍によって大損害を受けた燕王の軍は敵に包囲され、脱出もままならない状態に陥ったが、外にいた騎兵が救援に駆け付けたために辛うじて逃げることができた。燕王の戦友であり師でもあった張玉も、この戦いで死んだという。
 この件について記している史料はいくつもある。一つは明実録で、Andradeによればこの敗北は永楽帝の命令に兵たちが従わなかったせいであり、永楽帝はそれほど窮地に陥ったわけではないと書かれている(p84)。一方、明史紀事本末には敵が「具列火器毒弩以待」というところに真っすぐ突っ込み、「盡為火器所傷」と大きな被害を負ったことが記されている。包囲された彼が自力では脱出できず、外部からの救援で本人は逃げ出したものの「燕兵大敗遂北奔」とも書かれている。
 この敗北は彼にとってかなりショックだったようで、張玉の死については「殊可悲恨」と嘆いているし、その後も「吾至今寢食不安」と述べており、AndradeはPTSDの可能性に言及しているほどだ(p75)。明史にもこの戦いについては「庸以火器勁弩殲王兵」と書かれているし、明大政纂要にも「燕兵為火器所乗大敗」し、盛庸は「殺傷萬計」と多くの被害を燕王軍に与えたことが記されている(729/1362)。
 明史には盛庸の列伝もある。ここには「而燕軍為火器所傷甚衆」という言葉があり、やはり火薬兵器によって燕王の軍勢に大きな被害が出たことが確認できる。この敗北が彼にとってかなりのダメージであったことは、以後彼が南方に攻め込む際に東昌のある山東省を敢えて通ろうとはしなかったことからも窺える(明史)。
 Andrade曰く、彼のこの後の戦いは「大胆さも決断力もより乏しい」、自信のなさそうなものに変わった。そして何より、彼の戦いに銃砲がより多く取り入れられたという。時には他ならぬ盛庸の陣営近くに銃を持った兵を接近させ、射撃を浴びせたこともあった。驚愕した盛庸は馬に乗ることもできず、小舟で運ばれていったという(p75)。それ以前の戦いで彼が銃を使ったのは、攻撃の合図を出すときくらいだったが(p73)、東昌の戦いによって彼の火器への姿勢が変わった、というのがAndradeの指摘だ。

 玉座に登った永楽帝は、その後も積極的に火薬兵器を使った戦争を行う。1つの代表的な例が1406-1407年にかけて行われた大越征服だ。きっかけは大越の内紛である。当時のベトナム北部は陳朝が13世紀前半から支配していたのだが、この王朝はモンゴルとの度重なる戦争で疲弊し、さらに14世紀半ばからはベトナム南部にあったチャンパにたびたび侵入されるようになった。
 大越とチャンパとの戦争についてはこちらでも少し触れているが、1390年のチャンパによる侵攻の際に大越はかなりの窮地に陥ったようだ。この際には火器を使った攻撃でチャンパ王を戦死させることに成功し、辛うじて国を守った。だが防衛に苦戦する中で陳朝は支持を失い、外戚だった胡季犛に実権を奪われる。彼は1400年に胡朝を打ち立てるのだが、これが中国の介入を招くきっかけになった。
 永楽帝は、大越の王位が胡朝に簒奪されたことを批判し、前王朝の関係者を擁立する姿勢を見せた。簒奪者が簒奪された者を助けるという、実にマキャベリズム的な対応である。皇帝は擁立した人物にたった5000人の護衛をつけただけで、彼らを大越の都へと送り込もうとした。もちろん、彼らは待ち伏せを食らい、その大半は殺された。それを聞いた永楽帝は激怒する様子を見せた、という。
 永楽帝が本気で5000人の兵だけで陳朝を復活できると思っていたのか、それともこれは単に戦争の口実を作るための行動にすぎなかったのか、Andradeは一応「分からない」としているが、実際には永楽帝はこの直後に戦役の準備を行い、かつそれを注意深く実行している(p76-77)。明がその後に大越を征服し、およそ20年にわたってそこを支配したことを考えるなら、そもそも征服自体が目的だったと考えてもおかしくはないだろう。
 明朝では初代洪武帝が治世後期に徹底した恐怖政治を強いたことが知られている。永楽帝自身も簒奪という乱暴な手段で権力をつかんでいる。そしてこの大越への対応でも、謀略じみた手段を使っている。政治がきれいごとだけで済まないという、歴史上でもありふれた事例の一つに過ぎないのだが、それでもこの両名が明の全盛期を築いたと考えると、なかなか皮肉にあふれた事例と言えるかもしれない。
 ただし永楽帝の大越戦には1つ大きな課題があった。大越側の火力は1390年の戦いの結果にも大きな影響を及ぼしている。これにうまく対処しなければならないのだが、永楽帝はどうしたのだろうか。長くなったので以下次回。
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