インドの火薬伝来?

 モンゴル軍が西征の際に火薬兵器を使っていたと主張している人物の中には、インドの火薬兵器史に詳しいKhanもいる。彼についてはこちらで少し触れたことがあるのだが、さすがにインドが火薬発祥の地とは言っていないものの、13世紀にはモンゴル軍を通じて中国の火薬がインドに入ってきた、という主張はしている。前に紹介した通り、モンゴルの西征が火薬を伴わないものだったとした場合、この指摘は怪しいことになる。さて、果たしてKhanの主張にはどのくらいの根拠があるのだろうか。
 ここでは彼の2つの文章を取り上げる。Coming of Gunpowder to the Islamic World and North Indiaと、Firearms in Central Asia and Iran during the Fifteenth Century and the Origins and Nature of Firearms Brought by Baburだ。注意しておいてほしいのは、どちらも1990年代に書かれていること。Raphaelの文章を紹介した時に、モンゴル軍が西方で火薬を使った説を唱えている学者たちの名が列挙されていたが、他の面々と同様にKhanの研究も少し時期が古い。
 Coming of Gunpowderは主に14世紀に中東や北インドで火薬が使われていたと主張するものとなっている。特に前者についてはHawの話とある意味でダブることになるが、KhanはHawとは異なる方法で自説を証明しようとしている。ペルシャ語文献の原文を取り上げ、それをどう解釈するかを論じるとのやり方だ。これは、当該言語に詳しくない人間にとっては反論が難しい主張なのだが、まずは読んでみよう。
 Khanは最初に火薬研究史を説明し、中国が火薬を発明したと主張している。足元ではこの見解に反対する人はほとんどいないのだが、20世紀にはまだ反対派の影響力も残っていたのかもしれない。続いて彼は13世紀の火薬兵器として火砲、火鎗(Huo ch'iang)、突火鎗、爆杖の4種類があると紹介(p33)。正直なぜこの4種類なのかよく分からないラインアップだが、後まで読むとこの4つ(というか火鎗)を重視している理由は分かる。
 次に面白いのは、モンゴル軍が中国北部で火薬兵器を使っていた論拠として、中国語史料ではなくペルシャ語史料から語り起こしている点だ。集史には1233-1234年にモンゴルが北部中国の町を攻めている時にchang-haなるものを使ったとの記述があるという。集史の手稿まで調べたKhanは、一般にchangal-ha(爪)と解釈されていることに反対し、これは実はch'iang-haではないかと指摘。これは戦場で「(huo) ch'iang」火鎗が使われていた証拠だと言っているのだ(p36)。
 そしてKhanはこの論拠を、その後のモンゴル西征に次々と当てはめていく。世界征服者の歴史に出てくるアラムート城攻撃の最初の部分に出てくるba subuhi-i changも、あるいはzakhm-i changという記述も、どちらもch'iangという文章の方が正しく、従ってそれは「[huo] ch'iang」火鎗に違いないというわけだ(p37-38)。正直ペルシャ語に詳しくない私としては、そういわれればそうですかというしかない。
 でも、Khanが新しく解釈を示してくる一連の記述のどこにも、「huo」火を示す文字がないのはなぜだろうか。Khanのペルシャ語解釈を受け入れた場合、最も素直な解釈は「これらは中国語の槍を意味している」となるはずであって、「火鎗を意味している」とはならない。何しろhuoに相当する言葉がないのだから。Khanの解釈で[huo]がほぼ自動的に付属してきている理由について、彼は何も説明していない。
 Khanはまたアラムートで使われたkaman-i gaw(牡牛の弓)についても言及しているが、それが火を使った兵器であり、かつ中国人が使いこなす異なるテクノロジーであったように見えることから、火薬であるとこれまた安直に結論づけている。この兵器については前にも述べたのでそちらを参照のこと。
 上記のようなガバガバな理屈で「モンゴルは火薬兵器を使っていた」と主張したうえで、Khanは今度は北インドに火薬兵器が伝わったとする証拠を持ち出す。まずはアミール・ホスローという13~14世紀のインドの芸術家が残した攻城戦に関する記録を取り上げる。これまたペルシャ語の解釈で乗り切るわけだが、今度はchangという言葉がうまく見つからなかったのか、nahas kashi-i jangという用語をnahas kashi-i changに変えたうえでさらにそれを「[huo] ch'iang」であると言い張ることによって火鎗に結び付けている(p40)。そのうえで1300年頃には「火鎗が既に北西インドに届いていた」と結論づけている。
 他にもいくつか言及があるが、火薬絡みの主張は無理のあるものが大半。唯一見るべきものがあるとしたら、13世紀末から14世紀半ばの人物であるバラニの記したTarikh-i-Firuz Shahiの中に「花火の打ち上げに関する描写」(p44)があると主張しているところくらいか。だがKhanはこの記述については脚注で終わらせており、どこまでその内容が適切なのは判断しがたい。おまけにこのバラニという筆者、はっきりと「不公正な筆者」(The history of India, p95)と書かれるほど、信頼できない人物と思われているようだ。

 もう1つのFirearms in Central Asiaは、内容が大きく3つに分かれている。そのうち最も問題が多いのは、1番最初に書かれている15世紀に中央アジアのあちこちで火薬兵器が使われていたという部分だ。中でも真っ先に出てくるティムールの帝国に火薬があったという西欧人の記録については、既にこちらで言及済み。Chaseの言う通り、ティムールの宮廷でアルケブスが作られていたというのは単なる誤訳だろう。
 といってもKhanがこの文章で強調しているのはもっと別のもの、具体的にはペルシャ語の解釈を通じた火器の実在主張だ。つまり上に紹介したものとやり方は同じである。今回彼が取り上げるのはkaman-i r'ad(雷の弓)なる兵器。15世紀の記録に数多く出てくるこの兵器は大砲のような火器だそうで、その論拠の1つが、逃げるボートに向けて捕らえた敵の頭部をkaman-i r'adで撃ち出したところ、いくつかは目標に命中した。「素早く移動する目標に狙って充てるのは、投石機を使うより『大砲』の助けを借りる方が実行可能だ」(p437)、というのがKhanの理屈である。大砲で人間の頭部をぶっ放したりしたら、着弾時にはバラバラに飛び散ってしまうのではないか、とは考えなかったようだ。
 そうした点も含め、中央アジアにおける15世紀の火薬兵器についてもKhanの言い分は正直無理があるように思える。実際、GommansのMughal Warfareでは、Khanの言い分に対する疑問をいくつも突き付けている。Gommansによればkaman-i radを火器と見る主張は「控えめに言っても相矛盾して」いるそうで、これが火器ではなく火矢を放つある種の弩を意味していると考えても別におかしくはないそうだ。
 Khanが証拠に挙げている15世紀の清浄の園という本についても、Gommansはツッコミを入れている。Khanはこの本に出てくるrekhtagarという文言について、18世紀のlexicographerという言葉を論拠に金属の鋳造を意味していると主張し、だからこれは鋳造した大砲だと結論付けている。でもGommansは、武器に関する用語の変化の激しさを考えるなら、15世紀の文章を18世紀の文言で説明するのは無理があるとしている。それに金属加工技術は金属製の矢を製造する際に使われていたそうで、ロシア東部では13~14世紀の金属製の矢が見つかっているそうだ。
 そして何よりこの武器が1200キロもの岩石を発射できたというKhanの主張が問題視されている。Gommansによれば世界最大の石弾を発射できたとされるPunbart von Steyrでも、「石弾の重さは697キロ」だったそうで、その倍近い石弾を撃ち出す大砲という時点で話が相当にヤバい。Gommansはこの1200キロという記述について、トレビュシェット用のカウンターウェイトだったのではないかと推測している(Gommans, p229)。
 というわけで15世紀の火器については正直これまた信頼できない部分が多いのだが、16世紀に入りバーブルが登場してきた第2章以降を見ると、Khanはそれほど変なことは書いていない。もちろん情報が古いので、例えばムガールのtop-i firingiについて、中国の佛郎機が言葉の由来ではないかと書いたりしているが、もちろんこの武器の語源はオスマン帝国のprangiだ。他にもzarbazanやtufengsといった武器について西欧由来ではないかと記しており、このあたりはおそらく間違っていない。
 唯一気になるのは、ムガールで大型砲を意味していたkazanという言葉(Mughals at War, p62など)について、kaman-i r'adに由来しているのではないかと主張している部分。このあたりはもう少し調べた方がいいのかもしれないが、現時点ではあまり信用しないでおきたい。
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