使用したデータは、まず神聖ローマ帝国の大学生4万7000人と、1300~1940年に生まれた著作物の筆者のうち名前や生誕地に関する情報がある人々の2種類。前者は中世の名前を調べることにより、宗教が名づけに影響していた度合いを調べるのが目的だ。そのうえで後者のデータを使い、宗教的な人々の多かった地域や少なかった地域において、産業革命後の成長度合いに違いがあったかどうかを調査している。以前、
苗字(family name)を使って格差問題を調べた事例を紹介したが、名前を使うことで色々な切り口から歴史を定量的に分析できるという点では今回の研究もとても意義深いものだと思う。
まずは個人の名前がどの程度、宗教的な背景を持つかを調べている。具体的にはカトリック教会のうち聖人の名前を冠した教会について調べ、具体的にどの名前が多いかをまとめている。最多を占めたのは聖母マリアで、全体の4分の1強と圧倒的だ(Table 1)。ただし調べる対象が大学生などであり、女性はほとんどいないため、実際の分析に際して意味を持つのは2位以下の面々、具体的にはPeter(ペテロ)、Yahweh(ヨハネ)、Paul(パウロ)などだ。
もちろんカトリックだけでなく、近代に入るとプロテスタントも出てくる。欧州では後者の影響も大きく、そしてプロテスタントは聖人ではなく聖書に登場する人物の名を子供につけるケースが目立つ。ただ実際には両者は重なっている部分が多く、統計処理上はほとんど違いはなかったようだ。
次に論文では1250~1550年に大学に通っていた学生たちの名前を調べている。宗教的な名前を見るとトップがYahweh、2番手がNicholasなどとなっているのに対し、非宗教的な名前としては国王などに由来するHenry、Williamといった名前が割と人気だったようだ(Table 2)。彼らの生誕地についてはFigure 1に描かれているが、大半が神聖ローマ帝国領内から来ているものの、東欧にもかなり広く出身地は広がっているし、イタリアなどもそこそこ学生を送り込んでいる。
当時の大学はまず文法、論理、修辞といった基礎教養を学び、それから算術、幾何、音楽、天文を修める。そして最後に学ぶのが法律、医学、神学のいずれかであった。そこで論文では、特に神学を学ぶ学生と、彼らの名前との関係に注目。宗教度の高い名前と神学を学ぶ学生との間に、一定の相関関係があることを見出した(Figure 2)。それだけではない。法律の中にもローマ法と教会法の2種類があり、後者を学ぶ割合は宗教度の高い名前とやはり相関していた(Figure 3)。
名前は当人ではなく親や祖父母がつけるものであり、当人が育った環境が宗教的であるほど人気の高い聖人や聖書の登場人物の名前を子供につける可能性が高い。そしてそういう強い宗教的環境の中で育ったと思われる者たちに、実際に宗教に関連する学問分野を選ぶ傾向が強く出ているわけで、名前そのものを宗教性のメルクマールとして使ってもおかしくはない、というのが論文の主張だ。
次に論文では1300~1940年に生まれた著者たちのデータを取り上げる。彼らの生誕地は世界中に広がっているが、そのうち中心的に取り上げるのは欧州だ(Figure 4)。こちらでもまた宗教的な名前として、守護聖人と聖書の登場人物たちの中で人気のある名前を並べている(Table 4)。これらの名がやはり宗教性と相関していることは、フランス革命時に革命政権ではなく教会に忠誠を誓った司祭たちの割合との比較からも分かる(Figure 5)。
宗教的な名前と宗教性との関連については、地震が起きた地域とその後に宗教的な名前が増えているかどうかも裏付けにしようと試みている。Figure 6では地震のあった場所とその近くで生誕した著者の位置が示されている。これらの関係を調べると、実際に生誕から30年前までの期間に起きた地震が、宗教的な名前にインパクトを及ぼした度合いが高かったことが分かったそうだ(Figure 7)。両親や祖父母が地震を経験し、それが子孫に宗教的な名前をつける動機になった可能性が浮かび上がる。
そのうえで、著者たちが実際にどのような職種の人間であったかも調べている。非宗教的な名前を持つ著者の職業は教師やエンジニア、医者、科学者といったものが上位を占めているのに対し、宗教的な名前を持つ筆者は圧倒的に司祭が多く、他にも神学者やカトリック、牧師といった宗教関連の職業が上位にある(Figure 8)。学生データだけでなく著者データを見ても、宗教的な名前と宗教性の高さとは相関していると考えられる。
問題は、宗教性の高い名前の持ち主は、そうでない者よりも、高い学歴に進まない傾向が見られること(Figure 9)。産業革命とそれに続く経済成長を進めるためには技術的な知識を多くの人間が身に着ける必要があるのだとしたら、宗教性が持つこの傾向はむしろマイナスに働く可能性がある。そして実際にデータを調べると、確かにそうした推測に合った答えが出てくる。
論文では経済成長のメルクマールとして都市化の度合いを使っている。それぞれの都市の近くで生まれた筆者が一定数以上いた地域を調べると、Figure 10のようになる。ドイツを中心に1500~1900年までデータが揃う地域があり、その周辺(英仏とイタリア北部や東欧など)を見れば1800~1900年という産業革命以後のデータがある地域も存在する。これらの地域を対象に、宗教性の高い地域と低い地域における都市化がどのように進んだのかを示したのがFigure 11だ。
見ての通り、産業革命が広まり始める1800年時点では両地域の間に都市人口の点でそれほどの差はない。それ以前の時期を見るなら、むしろ宗教的な地域の方が都市人口が多いくらいだ。だが産業革命後、この動きは逆転する。非宗教的な地域にある都市の方が急激に成長しているのに対し、宗教性の高い都市は伸びが鈍い。ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」が資本主義をもたらしたと主張したが、こうした定量的データを見る限り宗教は(カトリックだろうがプロテスタントだろうが)むしろ資本主義の足を引っ張った、という結論になる。
最近は色々な手法で歴史の中から定量的データを引っ張り出す取り組みが増えているが、この論文もその一つと言えるだろう。ただしこの手は欧州だからこそ使える方法のように見える。少なくとも日本では宗教に由来する名前を子供につける慣習はほとんどないし、名前が世俗的か宗教的か区別をつけるのも困難。クラークが活用した珍しい苗字を使う手法は日本にも適用できたが、この方法は残念ながら適用できない地域も多そうだ。
それでも取り組みが面白いのは間違いないし、宗教が産業革命やその後の経済成長にどう影響したかを定量的に推し量るのは大いに意味があると思う。この論文はあくまでキリスト教と経済成長との関係に焦点を当てているが、他の研究の紹介を通じて例えばイスラム社会では中世になって宗教機関の機能が強まった結果として科学で立ち遅れるようになった話もしている。さらに脚注では自分たちの手法がユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教や、さらには神道にも適用できるのではないかと記している(神道については上にも述べた通り簡単ではないと思うが)。
何よりこの話は、以前
こちらで紹介した、「大きな神」への信仰という形を取った道徳が都市化の進む産業社会にうまく適応できていないことを示す、1つの具体的事例となっている。
キリスト教やイスラム教などを含む枢軸宗教は、農業社会ではうまくメンバーの包括適応度を上げられたが、産業社会でより包括適応度が高いのはむしろ「世俗的啓蒙」の方だ、という仮説を定量的に裏付けているのがこの論文だ。
産業社会化が急激に進み始めてまだ200年ほどしか経過しておらず、だから枢軸宗教に対する態度を変えていない人もまだいる。それでも産業社会化という形の環境変化が世界的に進めば、それに合わせた道徳、というかより包括適応度の高い新たな行動ルールみたいなものが広まるのは必然なんだろう。
社会の中の価値観は、かなり急激に変化が進んでいる。皆が新しい環境へ適応しようと悪戦苦闘している結果が、そうした変化をもたらしているのだと思う。
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コメント
非常に面白い研究手法ですね。以前、ここでも紹介されている『格差の世界経済史』を読んで非常にユニークな切り口だと感心したことがありますが、ここではfirst nameですか!
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/5714/trackback
この本でユダヤ教についての解析がなれていないことは意外でした。それなりの集団がヨーロッパに存在すると思いますので。因みに昔、80年代ですが、私が留学した某大学の医学研究院では著名な先生の多くがユダヤ人で驚いたことがあります。うち同講座の何と2人がノーベル賞受賞者で同時にユダヤ人でした。ま、統計的に有意ではないでしょうが(笑)
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/3674/trackback
私はこうした分野は全くの素人で、偶々図書館とかで目に付いた本から見つけるしか手がありませんが、こうした分野はどのカテゴリーを探せば見つかるのでしょうか? いや、原著で読む能力も気力もないのでできれば翻訳で(汗)
2022/02/14 URL 編集
この手のネタはツイッターが見つかるきっかけになることが多いですね。
歴史に関してデータを使った分析をしている研究者のツイートを追っていると、時々こういう話に出会います。
残念ながら、ほぼ全部英語(時々他の欧州言語)だったりしますが。
2022/02/14 URL 編集