イル・ハン国の攻城戦

 前にモンゴルの西方遠征に火薬が使われていたという主張を紹介した。今回は正反対の論者を取り上げよう。Raphaelの書いたMongol Siege Warfare on the Banks of the Euphrates and the Question of Gunpowder (1260-1312)を題材とする。と言ってもこの文章の前半は、以前「モンゴルの西征」について書いた内容と少しばかりダブっている。
 まず最初に言及されているのが、騎兵中心のモンゴル軍が攻城戦を行うために、特に中国北部から関連する人材を動員して戦争に使用していたという話だ。チンギス・ハーンの時代から1万人単位の攻城戦要員がいたと記しているペルシャの歴史家もいるらしい。そしてフレグの時もこの北部中国から集められた職人たちが、中東各地の攻城戦に使われることになったようだ。
 中国軍の攻城兵器についてRaphaelは投石機、火砲、大型の弩の3つを並べている。このうち問題になるのはもちろん2つ目の武器。モンゴル軍が焼夷性の武器を使っていた例は、前に紹介したアムダリア河での火箭や、世界征服者の歴史に出てくるチンギス・ハーンの「町の全域に火をつけろ」(p106)という命令からも、実際にあったことが窺える。問題はこれが火薬だったかどうかだ。
 Raphaelが列挙する「火薬だと主張する学者」の一覧には、Goodrich、Allsen、Khan、Martin、Chase、DeVries、Needhamなど錚々たる名前が並んでいる。一方、反対の主張をしている学者の名前も紹介されており、例えばFrankeは「元朝末期になっても火薬は戦いの行方を決めるような武器ではなかった」としているそうで、またAyalonはマムルーク朝について「13世紀や14世紀前半に火器が使われた決定的証拠はなく、火薬はあくまで可燃物でしかなかった」と記しているそうだ(p360)。
 続いてRaphaelはフレグの火薬使用の可能性について論じているのだが、こちらについては上に紹介したエントリーと内容はほぼ同じ。集史と世界征服者の歴史は、どちらも火薬について言及せず、フレグが連れてきた中国北部の職人たちやその装備についても特別なことは述べていない。naft、つまり何らかの可燃物を放り投げる武器についての話はしているが、それだけでは火薬と決めつけるのは無理だ。
 中国の元史についても、内容はほぼエントリーで述べた通り。Raphaelは「火匠」(93/117)の正体について頭を悩ませているが、これは実際には「金火匠」と読むべきものであり、鋳造絡みの金属加工職人を意味することはほぼ間違いないだろう。満洲旧蹟志には清乾隆年間の「鉄声托」、つまり鉄製の台に残された銘文が採録されているが、そこには「金火匠孟杯貞」(p197)という名が書かれている。またこちらの本には鋳造された何かの「鋳文」に金火匠の名が残されていること、こちらの本では鋳鉄製の鐘にやはり金火匠の名が記されていることが指摘されている。泰山山麓題記調査報告でも、梵鐘や鉄塔を鋳造した人物が「金火匠」と呼ばれている(p192, 193)。
 Raphaelはさらにバグダッド攻囲に関する各種のアラブ語史料も紹介し、そのいずれにも火薬らしき言及がないことを紹介している(p362)。やはり文献からモンゴルの西征で火薬が使われた証拠を探そうとしても難しいのだろう。

 一方、文章も後半に入ると新たなテーマが取り上げられる。フレグの後にイル・ハン国が行った攻囲を取り上げ、それがフレグ時代とどう変わったのかについて分析しているのだ。むしろこちらの方が個人的には目新しくて面白かった。
 フレグ時代以前の攻囲は、非常に大掛かりで派手なものだったようだ。1221年のニシャプール攻囲では「3000の巨大なクロスボウ、3000の投石機、ナフトの壺を投じる700の機械、4000の梯子と、2500もの塊に積み上げられた石」(p363)が用意されたという。数字はおそらく誇張されているが、大規模な攻囲だった様子は窺える。フレグによるバグダッド攻囲では城壁より高い塔が作られ、その上から投石機が使われた。また河川の流れを変えるなど、大規模土木工事も行われたそうだ(p364)。
 ただ、フレグの攻城戦において、中国北部から動員された職人たちは、ここぞといった場面以外は後方に控えさせられていた。小規模な拠点の攻撃などは動員された地元の人々と、少数のモンゴル軍とによって賄われていたという。チンギス・ハーンの時代から「現地調達」で攻城戦を遂行する傾向はあったが、それはフレグの時代も通底していた模様。ただしフレグの場合は切り札として中国北部から動員した主力攻囲部隊がおり、それが短期間で多くの城を落とすうえで役立ったのだろう。
 ところがペルシャ全域からメソポタミアまで占領し、次の侵略地としてシリアを目指すあたりから、モンゴル軍の戦力に陰りが出てきた。Raphaelは13世紀末から14世紀初頭にかけ、モンゴル軍が行ったユーフラテス河沿いのアル=ビラとアル=ラーバという2つの城塞への攻撃について、詳しく分析している(p365の地図参照)。ここはマムルーク朝の最前線でもあり、そしてよく知られている通りモンゴルの侵攻はこの戦線でストップした。
 とはいえ1259年に始まったアル=ビラに対する最初の攻囲は、2週間でモンゴルの勝利に終わった。p370にあるRaphaelがまとめた表(Table 1)を見ると、この際には多くて7万人の兵をイル・ハン国は動員した。ただしせっかく奪ったこの拠点も、その後のアイン=ジャルートでの敗北もあって、3年後にはマムルーク側が取り戻していた。
 2度目の攻囲は1264-1265年に実施された。しかしこの時に動員できた戦力はたったの1万人、用意した攻城兵器も17基にとどまり、最終的にはカイロから接近してきたマムルーク側の増援を見てモンゴルは攻囲を諦め撤退した。1272年にはアル=ビラとアル=ラーバに対して同時に攻囲が行われたが、兵力が分散された結果としてそれぞれの地域に回されたモンゴル軍は(同盟軍であるセルジューク軍などを含めても)アル=ビラでは6000人、アル=ラーバでは3000-5000人まで減っていたという。結局マムルークの増援が来たために彼らはまたも撤退を強いられたのだが、その際には追撃を受けて大きな損害を出したという。
 数が少なすぎたことを反省したのか、1275年の次の戦いでイル・ハン国はアル=ビラ攻撃に3万人を動員してきた。半数はモンゴル兵ではなかったものの、70基の攻城兵器を投入したそうなので、本気で城攻めをするつもりだったと思われる。ただ天候不順などの影響で、結果的に彼らは9日で攻囲を諦めた。
 以後、イル・ハン国は直接の城攻めは諦め、拠点を迂回して敵を野戦に引きずり出す作戦に切り替える。1280年と1281年にそれぞれ行われたシリア侵攻は、しかしいずれも撃退された。1299-1300年の侵攻作戦ではダマスカスまでは進んだものの、最終的には撤退。1300-1301年の侵攻は悪天候によってやはり引き上げることになった。
 続く1303年の作戦でマムルークが待ち構えていない場所でユーフラテスを渡ったイル・ハン国は、交渉でアル=ラーバを奪うことに成功。ところが2ついたモンゴル軍のうち一方はそこで引き上げてしまい、もう一方はダマスカスへと行軍したもののマムルークに敗北した。そして1312-1313に行なわれたイル・ハン国の最後の攻勢で彼らはアル=ラーバに「ギリシャ火」を浴びせるなどしたものの、補給不足もあって最後は引き上げた。
 要するに途中からイル・ハン国のユーフラテス要塞に対する攻撃はひたすら失敗続きだったわけだ。その理由についてRaphaelは「攻城部隊の劣化」を原因に挙げている。かつてチンギス・ハーンやフレグが行っただけの大規模な攻城部隊による攻撃を、フレグ後継者たちのイル・ハン国は再現できなかったのである。それを実行するだけの大規模な労働力と職人たちが、既に彼らの手元にいなかった。かつては北部中国から大量の職人を引き連れてきたモンゴル帝国も、この時期にはいくつもの後継国家に事実上分裂し、そうした形での攻城部隊の補充や強化ができなくなっていたのだろう。
 つまりモンゴルの侵攻が止まったのは、前回Hawが述べたような「火薬兵器の秘密がばれたから」ではなく、モンゴル自体が分裂して個々の動員力が弱まったのが理由なのだ。原因としては凡庸かもしれないが、こちらの方が説得力のある主張だろう。
 なおフレグの後継者たちによる攻城戦において火薬が使われたと書いているマムルーク側の史料は存在しないと言う(p370)。もしフレグが中東に攻め込む際に火薬を持ち込んでいたのなら、後にそれが姿を消してしまった理由について説明がつかない。どうやらモンゴル軍は、攻城戦についてはあくまで専門家に委託しており、自分たちで実行したりノウハウを取得したりしようとはしなかったのだろう。専門家を中国から調達できなくなった時点で、イル・ハン国の攻城戦能力は大きく低下したのだと思う。
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