近代初期の欧州における火薬に関連した話を2つ読んだ。舞台とテーマは共通しているが中身はかなり対照的な文章だ。
1つは
The Destructiveness of Pre-Industrial Warfare 。近代初期の戦争が社会にどのような破壊的影響を及ぼしたかについて、経時的にざっくりとまとめたものと言える。アブストラクトを読んだ時点で、個人的にはデータ分析を通じてどの時代にどのような特徴が見られたかを分析したような内容かと思ったのだが、実際に載っていたデータはいくつかの時期において軍の死者数の何%を戦闘死が占めていたかについて記した表が1つだけ。もちろん、どの例を見ても戦闘での死亡より病気による死者の方がずっと多かったわけだし、そうした数字が出てくること自体はいいのだが、それ以外は大半がナラティブな説明に終わっている。
一応この説明によると、火薬の導入によって戦争にかかるコストが増加していったのに対し、当時の政府にはそのコストを賄えるような体制が整っていなかったと指摘。封建制はこの問題(行政側の能力不足)を解決する中世的な対応策だったわけだが、近代初期に火薬兵器が普及すると、封建的な体制下で動員されていた質の悪い歩兵が、扱いやすい兵器を持たされたことで相対的に戦闘力を増した。16世紀にはそうした面が兵のコストパフォーマンスを高めたのだが、一方で兵力の増加、17世紀半ばに生じた人件費の上昇傾向、そして歩兵を鍛えるために必要な士官や下士官の数の増加によって行政の負担するコストも増えた。
このコスト増の解決法となったのが傭兵だが、これは実は短期的なコストを抑える一方で、給与を十分にもらえない傭兵が各地を荒らしまわることによる結果的なコスト増をもたらしたという。さらに傭兵を恐れた農民たちが農地から逃げ出したことで生産力そのものへのマイナスの影響も生じ、そしてもちろん戦争がもたらす疫病を通じた人口動態への深刻な負荷も増えた。17世紀にはこれが欧州の一部で人口減をもたらし、短期的コストを避けた国家に最終的なツケを回してきた。
そこで新たな国家体制ができた。論文では旧制度(アンシャン・レジーム)と書いているが、要するに絶対王政下での、より国家によってコントロールされた軍事活動へのシフトだ。こちらは結果的なコストを減らすため、短期的な財政負担を背負うというやり方であり、軍事=財政国家の進展がそれをある程度は可能にした。だがこれまたやはり兵力自体の増加、軍組織の複雑化(多階層化)による職業軍人の増加などが理由でコストは増えていった。これらを財政負担で賄おうとしたが、実際に起きたのは絶対王政国家の財政破綻であり、18世紀末にはこのやり方も行き詰った。
そこで出てきたのがフランスと英国の方法。前者は現地調達という方法で財政ではなく結果的なコストへと負担を転嫁し、またナショナリズムを利用した総動員によって数を賄った。後者は直接税を含む軍事=財政国家の強化によって資金をかき集め、それを大陸諸国にばらまいて規模の増大した戦争を支えた。以上が近代初期から産業化の直前に至る軍事とその影響についての大きな流れだという。
大雑把な流れはそうだと思うが、残念ながら表面をなぞっただけに終わっている印象があるナラティブだ。Parrottの本に書かれているような
詳しい経済動向 は、この文章からは分からない。
Goldstoneの議論 に従うなら、17世紀前半と18世紀末に訪れた危機は、基本的に欧州の人口増が収容力の上限に達したために生じたのだろう。でもその点への言及はほとんどなく、軍事活動の様態が変わっていった背景にそうした人口動態がある、といった分析は見られなかった。国家の財政力や徴税能力といった面についても、言及はしているが詳細に立ち入った言及はない。
むしろ人口動態こそが戦争の姿に影響を及ぼしていた、と考えてみる方が面白いかもしれない。制限戦争と絶対戦争という概念はクラウゼヴィッツの頃から知られているが、これは単に彼が18世紀までの、この論文で言えば「短期的コスト」で戦争を賄っていた時代と、革命以降の「結果的コスト」に転嫁する時代の両方を経験したために出てきた概念にすぎない。異なる2種類の戦争があるというより、社会の人口動態的な条件によって戦争が見せるコインの裏表が変わってくる、という意味に思える。戦争と国家や社会との関係についてそこまで踏み込んだ話であれば、ナラティブ中心でも面白かったかもしれない。短期的なコストと最終的なコストという切り口が面白かっただけに、少し残念な文章だった。
章の副題の通り、時代は16世紀末から17世紀初頭まで、ちょうど
グスタフ・アドルフ が活躍し始める直前までだが、当時スウェーデン領だったフィンランドで、どのように硝酸カリウム(硝石)を製造していたかについて細かく紹介している。グスタフ・アドルフ自身による軍事改革はよく紹介されているものの、その兵站を支えた背景について記したものは少ないだけに、非常に参考になる文章だ。
スウェーデン王国がフィンランドで製造していた硝石は、当初は小規模なものが多数あったそうだが、やがて大きく9つの工場にまとめられたという(Figure 5.1)。これらの工場は比較的水運の便利なところ、内陸河川や湖、もしくは海に近いところに設置されていた。最終的に戦場なり軍隊のいるところなりへ運ぶ必要性を考えればこの配置は当然なのだが、実際の運搬という面で見ると必ずしも事前に計画的にロジスティクスが組み上げられていたわけではなく、時々の必要に応じて慌てて運ばれたケースが多かったようだ。
硝石製造に必要なもの(土や家畜などの排泄物、灰、燃料となる木材など)は農民に税として課されたようだが、彼らから強い不評を買っていたという。それでもスウェーデンにとって硝石が必要なのは間違いなかったようで、他の税を免除された有力者たちからも硝石税は徴収されていた。必要な材料を集める責任は各地の執行官(Bailiff)たちにあったが、実際には彼らと硝石工場の関係次第で徴税の実態には差があった。硝石工場が執行官たちといい関係を築いていればうまく材料を集められたが、関係が悪い場合には材料集めそのものを硝石工場が担わざるを得ない場面もあったそうだ。硝石工場は成果に応じて賃金をもらっていたため、彼らは何としても材料を集めなければならなかった。
硝石工場はまた、当時としては格段に大きな装置産業だった。そもそも近代初期のフィンランドに農業以外の産業はほとんどなく、1世紀後になってようやく鉱山、製鉄所、製材所といったものが生まれてきたほど。だが硝石工場は製造工程に合わせて複数の建物を必要としたうえに、例えば硝酸カリウムの析出に使うための極めて大きな青銅製のポットなど、他ではなかなか使わないような様々な装置がないと稼働できなかった。これらの装置は一定期間ごとの更新、つまり定期的な設備投資の必要もあった。村落単位の農業しか知らない農民たちの間で、こうした大規模事業を営むのはかなり大変だったろう。
結局スウェーデンには、硝石工場の運営に細かく関与し続けるだけの行政的体制は整っていなかったようだ。彼らは17世紀前半にはその運営を諦め、一種の民営化に踏み切る。民間の事業者に払い下げ、そこから製造された硝石を受け取るだけにしたようだ。上に紹介した論文で言及されている傭兵の雇用と、ある意味通底するやり方だ。つまりスウェーデンは相次ぐ戦争に備え、短期的なコスト負担をやめ、結果的なコストへの転嫁を図ったと言えるだろう。
軍事史の中でもこういった兵站にかかわる部分の研究は多くない。経済史でも同様だし、農業社会についての研究でも硝石はただの脚注にすぎないようだ。実際、フィンランド以外の地域でもこの問題について詳しい研究がどこまで積み重ねられているかというと、目立って取り上げられることが少ないのは確かだ。それだけに、特定の時代と場所に限ってはいるものの、こうしたケーススタディを読めるのはとてもありがたい。
火薬兵器の歴史の中で、火薬のコスト問題はその影響力を見るうえで無視できない要素だと思える。
20世紀初頭に書かれた文章 (内容には誤りも多い)だが、その時期の火薬が1ポンド当たり4分の1ドル以下だったのに対し、初期の火薬は25ドルから50ドル相当の価値があったとも書かれている(p150)。単に大量に作るだけでなく、いかに安く作って配備するかという問題まで含めて考えれば、火薬やその材料である硝石の兵站についてはもっと詳しく調べた方がいいのだろう。
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