ナポレオンの行軍 10

 EscalleのDes marches dans les armées de Napoléonを使って長々とナポレオンの行軍に関する分析を紹介してきたが、今回が最後だ。彼の行った真のイノベーションは、戦闘隊形のような密集した隊列を行軍にも採用した点にある、というのが著者の考え。ただナポレオンはその存在意義について説明しようとはせず、そのため同時代人の大半はこの点について理解できなかったという。
 例えばティエボーは密集隊形での行軍があまりに苦痛であるため、マニュアルを書く際にこの方法を一種の罰として使うことのみを勧めた。ロニャ将軍は正面幅を増やすことで理屈上は隊列を短くできるが、この正面幅は最も狭い隘路を超えることはできないと指摘。そのため敵との遭遇時に最初に戦場に到着できる戦力は3万人に限られるとの結論を出している。
 対してナポレオンは、軍が普通は幅12ピエ(4メートル弱)以下の隘路を通ることはなく、また街道は4~6トワーズ(8~12メートル弱)の幅があるのだから、2列に並んだ車両あるいは正面幅15~20人の歩兵が行軍できると指摘。加えてほぼ常に街道の左右両側も通行できるのだから、12万人の軍勢であっても1つの縦隊が6時間あれば通過できると指摘している。ナポレオンはブローニュの宿営地で、既にムニエ将軍に密集縦隊での配置について研究するよう命じている。
 ただし皇帝はどんなルールに従って縦隊の数を選んでいたかについては明らかにしていない。Escalleは、例えば2日行程先まで偵察していれば、相互に向かい合って進んでいる敵と接触しても主力が戦うまで丸1日は猶予があり、兵力の集結ができると指摘。実際には道路のネットワークをどう使いこなすかは指揮官次第であるが、ナポレオンの対応は唯一可能とは言わないまでも思慮深いものだったとしている。
 密集しての行軍は接敵が予想される場面で使われるものであり、その場合はどのような疲労が生じるとしても達成すべき目標があった。そのため戦争機動は昼夜を問わず、どのような道であっても実行されるべきだったという。こうした原則は誰もが理解していたわけではなかったが、その実践が同時代人を驚嘆させ、尊敬の対象となったのは確かなようだ。
 またEscalleは、採用された宿営手段も速さの源泉の1つだとしている。テントをなくして荷物を減らしたのは、軍の移動力を高めた。軍は敵に接近すると野営したが、一方で宿営地を見つけ出す能力も高く、そのあたりは1805年の行軍でも見られた。いずれにせよ重視されたのは最大限の行軍を可能にする柔軟性であり、結果としてナポレオンの軍は驚くべき平均速度での移動を成し遂げた。
 といってもそれは皇帝の判断力の早さがあってこそだ、ともEscalleは指摘している。それがあるからこそナポレオンはその時々の必要性に即時に応じることができた。イエナでも、リュッツェンでも、ドレスデンでも、判断の遅い指揮官であれば状況の認識も、命令を出すのも遅くなり、これら輝かしい勝利をただの敗北にしていたかもしれない。ナポレオンの存在と、その要求に応じることができる機動力の高い兵との組み合わせがこれらの結果をもたらした。
 一部にはナポレオンは大きな方針だけを決め、行軍の詳細はベルティエに任せていたという主張もあるが、ジョミニによればナポレオン自身が部隊の移動をデザインし、制御していた。現代はもちろん、Escalleの時代であっても、最高司令官がそのような負荷を担うのは誤りであった。ただしナポレオンの場合はそのやり方が彼の性格に合っていたし、司令官自身が直接命令を送るのも、当時の環境であれば決して不利ではなかったという。
 ナポレオン時代の行軍戦術は、まさに彼の個人的な作品と言えるものだった。その教訓は戦争ドクトリンを形成したのみならず、勝利を確信した際のフランス兵の適性を示す間違いない証拠である、とEscalleは書いている。この自国兵のエイランに対する過剰な価値づけは、第一次大戦でフランス兵が多大な損害を出すことになった遠因なのだが、まだその惨劇を知らなかったEscalleにとってはナポレオンの行軍ですらそうした民族的特質の表象に見えたのだろう。

 とまあ最後にケチがついたが、それでもEscalleの指摘がなかなか面白いのは確かだ。ナポレオンの軍隊についてはその移動速度の速さがしばしば話題になる。一例がアウステルリッツ前のダヴー軍団の行軍だし、ドレスデンの戦い前におけるマルモンらの行軍も、あるいはリヴォリ戦役におけるマセナ師団の行軍もそうだ。でも速さばかりが話題になって、隊列の長さやら兵力の集結度が話題になることは滅多にない。
 その速さについても、1分間の歩数といった些末なところが話題になってしまうという残念な現状がある。確かにEscalleによればイタリア方面軍は通常の移動速度と言われていた1分間76歩を90歩まで増やしたそうだが、一方で彼は常にその状態で歩いていたとも断言していない。むしろ移動速度への貢献度ならテントの廃止の方が大きいと書いており、一般的な認識のおかしさが窺える。
 だがそれよりEscalleの本が興味深いのは、速度以外の面に対する注意を喚起している点だろう。このあたり、おそらく当時の軍人にとっては深刻に考えなければならない実務上の問題だったはずなのだが、後世の歴史好きにしてみれば軍隊は「地図上の点」もしくは「駒」にしか見えないため、現実に起きたはずの課題が見えなくなってしまうのだと思う。
 もちろんそうした指摘は、細かく歴史を調べればあちこちに顔を出す。例えばワーテルローの戦い開始が昼前まで遅れたのは、そもそも戦場に到達していないフランス軍がいたためだとの説がある。実際、こちらの説明を見ると、親衛隊が陣に着いたのは既にワーテルローの戦いが始まった後であった(p2)。間違いなく行軍縦隊の最後尾にいたであろう彼らの到着がそこまで遅れたのを見ても、現実の戦争では行軍隊列の長さというものが無視できない要因になるのが分かる。
 さらに極端な事例は、前にも紹介したバイレンの戦い前にデュポンが行った行軍だ。指揮官であったデュポンが前衛部隊の交戦開始とともに戦場で指揮を執ったところを見るに、司令官は前衛にいろというナポレオンの原則を彼も守っていたのだろう。ただし彼はナポレオンのように隊列を短くすることができず、結果的に到着した部隊を逐次投入するという戦術的にはよろしくない戦い方をしている。
 デュポンの状況で隊列を短くまとめることができたかどうかは不明。地形的な問題もあるし、何より最大500両に達したと見られる車両を引き連れていた以上、隊列が長く延びるのは避けられなかった可能性が高い。ナポレオンはこうした車両を後尾に回すことで主力がすぐ戦場に集まれるようにしたのだが、敵地のただ中から後退しようとしていたデュポンにとって、車両を後回しにすることはこれを見捨てることとほぼ同義だったはず。彼にはそこまでの決意がなかったのだろう。
 Escalleの議論で面白いのは、具体的に各師団や軍団の隊列がどのくらいの長さになったかについての推測値を計算している部分だ。当時のマニュアルを調べたうえでの推計であり、厳密ではないにせよある程度の論拠がある数字を示している。これらを見ると1個師団、あるいは1個軍団が全て通り過ぎるまでにどのくらいの時間が必要なのかについて目途が立つのが興味深い。また隊形によってこの数字がかなり大きく変わるのも分かる。あくまで推測でしかないとはいえ、こういうデータがあると当時の行軍の実態が今よりつかみやすくなるのではなかろうか。
 道路の幅に関するEscalleの議論も面白い。彼は主要街道であれば道幅20メートルくらいはあったと推測しているのだが、日本に住んでいるとかなり幅広に見えてくる。こちらによると江戸時代は大街道であっても道幅6間(10.8メートル)とあり、しかも橋の幅になると3間か、あるいは2間から2間半とさらに狭くなっていたそうだ。またこちらによれば五街道でも道幅は4間(7.2メートル)前後とある。馬車が一般的だった欧州とそうでない日本との差だろうか。
 そして、ナポレオンのイノベーションとされる行軍時の密集隊形の活用。この点こそEscalleの本における最も興味深い指摘だろう。このような指摘があることを知っただけでも、この本を読んだ価値はある。なかなか有意義な本だった。
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