ナポレオンの行軍 9

 EscalleのDes marches dans les armées de Napoléon第2部第6章には、最後の事例となるワーテルロー戦役の分析が載っている。1814年戦役でナポレオンが率いた兵は3万人を超えることはなく、大軍を移動させるという観点では取り上げる必要性に乏しい。一方、1815年にナポレオンは2ヶ月で30万人の兵力を前線に展開しており、これらを戦場に送り込んだ方法は注目に値するというわけだ。
 6月頭には北方軍をベルギーに送り込む準備移動が始まり、14日夕にはアム=シュール=ウールからフィリップヴィユの範囲に軍を集めた。当時ボーモンとフィリップヴィユからシャルルロワへは比較的悪路しかなかったそうだが、それでもナポレオンはプロイセン軍と英連合軍が合流する前にシャルルロワへとたどり着くことに成功した(地図はp234)。
 15日朝、彼は3つの縦隊で前進した。左翼はテューアンを経てマルシエンヌへ、右翼はフィリップヴィユを発してシャルルロワ支援のためシャトレへ進んだ。第3及び第6軍団と親衛隊で構成される中央は1時間の間隔を置いて行軍し、各部隊の荷物は親衛隊の後から続いた。騎兵を指揮していたグルーシーは混雑を避けるため側面の別の道を通って同じ方角に向かった。3つの縦隊は午前3時に出発した。各縦隊の先頭にいたレイユ、ヴァンダンム、ジェラール、パジョルは密集して一緒にシャルルロワに到着するよう行軍を調整した。彼らは先頭を進む歩兵連隊の直後に土木工兵を集め、悪路の修復や相互の連絡路の開削、そして必要なら架橋作業も担った。皇帝は中央の前衛とともに行軍した。
 パジョルの指揮下にいたドモンの第3騎兵師団は午前2時半に乗馬し、少なくとも50騎からなる強力な部隊をあちこちに送り出しつつシャルルロワ街道を進んだ。パジョルの第1騎兵軍団の残りは合流し、こちらは分遣隊を出さずにドモンに続いた。ドモンの砲兵は第3軍団の歩兵大隊の後に行軍した。ヴァンダンム軍団は3時、ロボー軍団は4時、親衛隊は5時に出発し、それぞれ砲兵と救急車両のみを伴っていた。親衛騎兵はやっと8時に動き出した。司令部の装備が出発したのは10時で、その後に第3、第6、親衛隊の装備が追随した。
 1万2000人から1万6000人の軍団が1時間の間隔で移動したため、これらは兵の間隔を詰めるなど密集して行軍したと思われる。右翼の先頭にいたジェラール軍団に対してスールト参謀長は第3軍団と肩を並べて進むよう、さらに右翼側のナミュール方面にいたるルートを偵察することも命じていた。また行軍に際しては「戦闘隊形で密集して」進み、荷物や邪魔になるものはフィリップヴィユに残してできるだけ機動しやすくすることも求めている。ただしEscalleは本当に密集して25キロも歩いたとは思えず、スールトは戦闘に備える必要性を強調したのではないかと見ている。
 計画は良かったが、実際には伝令のミスでこの計画は想定通りには進まず、ヴァンダンム軍団は6時まで出発できなかった。ジェラールもフィリップヴィユの出発が遅く、夕方までサンブルには到達しなかった。それでもフランス軍は15日は正面9キロの範囲で3つの橋を使ってサンブルを渡り、フルーリュスからシャルルロワまでの深さ12キロ、幅はもう少し狭い四角形の地域に12万3000人の兵力と350門の大砲を展開することに成功した。例えば親衛砲兵は7~9日までソワソンで編成中だったことを考えるなら、この行軍は奇跡的だ、という人もいる。
 翌16日、ナポレオンは引き続き両翼と予備の3つの縦隊で行動した。左翼を担ったネイには2個歩兵軍団と他の騎兵部隊、合わせて4万5000人から5万人が委ねられた。右翼はグルーシーが指揮し、親衛隊が予備となってナポレオンが必要な方にそれを差し向ける。この基本方針に伴い、この日はブリュッヒャーとリニーで会戦が行われたが、第1軍団が戦闘に参加せず効果は限定的だった。
 17日、ナポレオンはグルーシーをブリュッヒャー正面に残して左翼を強化した。しかし軍の前進は酷い悪天候もあって速度が落ちた。ウェリントンはこの状況を利用して後退に成功した。Escalleはこの速度低下について、2つの縦隊(ネイとナポレオン)が同時にキャトル=ブラにやって来たためではないかと指摘している。おそらくナポレオンは街道脇を通ることで速度を上げるつもりだったが、悪天候で「膝まで沈む」状態になったため、この手段の効果が限定されたのだろう。また落伍兵などによって戦力が低下することを恐れた皇帝が、7万人の兵を幅15メートルの道筋に集めた要因だという。
 18日のワーテルローの戦いでは、第2線にいたロボー軍団がサン=ランベール方面に移動した点に注目している。彼らは2個中隊正面の縦隊を組んでおり、その隊形で向きを変え、平野を横切って目的地に移動したそうだ。だが結果的にフランス軍は敗北した。
 17~18日の移動が批判を浴びているのは事実だが、Escalleは16日以降のナポレオンの方針についても「全盛期同様に明白かつ積極的」であったと評価している。彼によれば行き過ぎた批判は結局のところ後知恵に由来するという。そして、戦役開始時点における行軍の戦略的及び戦術的な目的については、1805年や1806年の行軍と同様、「ナポレオンは偉大であった」というのがその結論だ。

 以上でEscalleによるナポレオンの行軍分析は終了だ。そのうえで彼は結論を色々と記している。彼によればナポレオン戦略のキモは、戦役開始時から使えるあらゆる手段を素早く完璧に遂行し、かつ作戦の主導権を握ろうとする強い意思にあるそうで、そのために軍の移動は迅速さが特徴となった。前回も述べたように、彼にとって軍の力は質量と速度の掛け合わせであり、「素早い行軍は軍のモラルを高め、それは勝利する手段を増やす」という。
 ナポレオンは敵の弱点を突く決定的な地点にその一撃を差し向けた。行軍も最終的な戦場への集結を主な目的としたこの原則に従って実行された。ただし敵から遠い時には行軍の正面幅が広く取られ、敵の注意を分散させるとともに行軍を容易にして兵站の負担も増えないようになされていた。交戦が近づいてきた時にのみ、兵は密集して戦いに備えるようになった。ジョミニはこの幅広い移動と集中的な移動の選択こそが偉大な指揮官の特徴だとしているそうだ。
 特に称賛されているのは1806年の行軍、1813年のエルベ軍とマイン軍の合流、そして1815年の北方軍の移動だ。Escalleはこれらの行軍について前例を超えるものであり、今(20世紀初頭)でも軍にとって模範となるものだとしている。ただし、この原則の適用法は決して画一的なものではなく、様々な手法が取られている。それでもその中には「一般的な法則に従った共通の性格」がある、というのがEscalleの見解だ。
 1つは素早く戦えるような事前準備の部分だ。1日で1つの戦場に部隊を集められるようにすると言っても、常に戦闘隊形で移動するわけにはいかない。長距離の移動ではそもそもそれは不可能であり、地形の障害などで常に隊列は崩れ動きは極めて遅くなる。ナポレオンはもっと一般的なやり方として、どの方角から攻撃されてもいいように、正面も長さも広がりすぎないよう注意を払った。しばしば彼が方陣を推奨したのも、それが一因だろう。
 行軍時の安全のためにも色々と手を打った。スパイの活用もそうだし、前衛部隊とともに行動してそこから命令を発したのもそうだ。前衛部隊は機動を行い、敵を牽制し、軍が到着して隊列を組むまでの時間を稼ぐ。情報の正確度に応じ、行軍隊列は多数の縦隊(ウルム)からほぼ1つの縦隊(スモレンスク)まで様々な形態を取った。
 ただ一般的に、皇帝は情報が不正確で奇襲を受ける恐れが高い時ほど、隊列を密集させ、bataillon carréのような行軍を行った。ジョミニはこの原則について以下のように説明している。すなわち各部隊があらゆる場所から攻撃された地点に同じ素早さで到着できるよう準備することが重要であり、広すぎる正面、分断された戦線、大きな分遣隊、孤立した師団のように相互に支援できない配置は、よき原則に反しているという。
 ただし使える街道が少ない場合、縦隊の数は減らさざるを得ない。その分だけ各縦隊の規模と隊列の長さが増し、展開が遅くなるリスクが高まる。ナポレオンはこの危険を減らすために活用できる道路の幅全てや、時にはそれを超えるところまで隊列の正面幅を広げ、できるだけ早く部隊が戦場に到着できるようにした。フランス革命は横隊ではなく縦隊の活用を広めたが、それはあくまで戦場での使用であり、行軍にまで応用を広めたのはナポレオンが最初だという。
 1796年と1800年にはこうした密集隊形が道路上で、時には道路外で見られるようになったが、その多くは戦術的な機動に伴うものであり、何ら異常なものではなかった。しかし、1806年にバイロイトへの行軍についてスールトに命じられた「戦争機動」は「真のイノベーション」であり、皇帝はその点を正しく評価していた、というのがEscalleの見解だ。1806年の行軍の神髄は、bataillon carréよりも各縦隊内で実践された変革にあった、というわけだ。
 以下次回。
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