Escalleの
Des marches dans les armées de Napoléon 第2部第5章は、1813年春季戦役のリュッツェンと、秋季戦役のドレスデンが分析対象だ。リュッツェンの戦い直前の時点で、1812年戦役で多大な損害を出した大陸軍の生き残りはエルベ軍としてマグデブルクとヴィッテンベルクの付近に、新たにフランスでかき集めた兵はマイン軍としてヴュルツブルクからライプツィヒへ向かうルート上にいた。ナポレオンは当初、これらの軍を集めてダンツィヒに進む計画だったが、実現不能だったため今度はドレスデンに目標を変えた。
彼はイエナの時とは逆にライプツィヒを経由して連合軍を左翼側から迂回し、ボヘミアに追い詰めようと考えた。だがその前に両軍を合流させる必要があり、4月22日にはそのための命令が出された。マイン軍はイエナとナウムブルクに、エルベ軍はハレとマーゼブルクに向かい、これによってフランス軍の正面は60~70キロまで狭まった。合流すると食糧の現地調達が難しくなるため、ナポレオンは補給拠点を前進させ、兵や車両にも食糧を持たせた。
前年の経験からフランス軍は輸送用車両の数を大幅に減らしていた。1813年2月の布告で連隊用の車両は多くが荷駄に代わり、大きい荷物は車両に載せて師団の背後に続いた。味方の前衛部隊もしくは敵から1リュー以内のところに車両が来てはならないというルールもあり、車両が作戦の邪魔にならないような対応が取られた。
軍は集結地点までは行軍をしやすくするよう分散しながら移動した。4月15日からエアフルトへの移動を始めたネイの軍団では旅団単位の縦隊が間隔を空けて移動していたが、この隊列を詰めるためには19日から24日までの6日間を要した。これがナポレオンの意図によるものかどうかは不明だが、どの部隊も敵に接近するにつれて少しずつ密集していったのは事実らしい。最も敵に近いベルトラン軍団は2個師団をまとめて行軍するよう命じられている。
ザーレに迫り、それを越えると、敵との遭遇の可能性が大きく上昇した。騎兵不足のためフランス軍は敵より情報を得にくかったうえに、奇襲を受けるリスクも増え、それがいよいよ密集の必要性につながった。マルモンに対するナポレオンの命令では、大隊方陣を保持するよう推奨している。それが騎兵突撃から自分たちを守る唯一の方法であり、各指揮官たちはこの隊形で素早く行軍する方法を知らなければならない。だから彼らに毎日その方法を教えて慣れさせろ、というのが皇帝の指示だった。またコンパン将軍には方陣で野営するようにも命じている。
30日には実際にスーアン師団がロシア騎兵の攻撃に方陣で抵抗するのに成功している。翌5月1日、ナポレオンはリュッツェン経由で、エルベ軍を指揮するウジェーヌはマーゼブルク経由でそれぞれライプツィヒに向かった。マイン軍が通る地域は敵騎兵にとって望ましい平野が大半であり、ベルティエはネイに対して秩序を持って行軍し、また各師団は5つか6つの縦隊を形成して散弾が通り抜けるくらいの空間を空けて移動するよう命じた。
ネイは騎兵旅団と歩兵2個大隊、軽砲4門から成る前衛を主力の半リュー先に送り込んだ。各師団はスーアン、ジェラール、ブルニエ、リカール、マルシャンの順で移動し、砲兵は各旅団の先頭にいた。司令部の装備などはスーアン師団の背後に、各師団の装備はそれぞれの師団の後に続いた。スーアン師団は4つの方陣を組んでポザーナの隘路を抜け、後続の師団も同様の隊形で続いた。
ある計算によるとネイ軍団の隊列は、歩兵と騎兵が大隊間の距離を計算に入れずに16~17キロ、大砲を含む車両が14キロの、計31キロほどに達する。彼らが出発した時間が遅かったため、普通の行軍縦隊で移動していたら後尾は夕方になってもヴァイセンフェルスを出発できなかっただろう。一方で彼らの後に続く第6軍団は1日夕にはヴァイセンフェルスより先のリパッハに到着することになっており、従ってネイ軍団は密集隊形で行軍していたとEscalleは見ている。
2日、ナポレオンはローリストンをライプツィヒへと先行させ、残りの軍もそちらに向かわせた。敵はぺガウとツヴェンカウに後退していると見ていたため、彼はこの日に大きな戦いがあると予想していなかった。それでも彼は部下たちに、前日のネイに命じたような用心深い隊形を推奨しており、エルベ軍は左翼から、マイン軍はリュッツェンからライプツィヒに接近していった。
午前9時頃にローリストンはリンデナウに到着し、敵の前衛と戦闘が行われた。皇帝の注意がこの方面に引き付けられたところで、突如として敵全軍がフランス軍の右側面、カヤの平原に現れた。フランス軍はこの突然の攻撃に対処するため素早い移動をしなければならず、マルモン軍団は街道を離れ平野を移動した。リュッツェンの戦いそのものについて、Escalleはほとんど言及していない。
3日、ネイ軍団を除くフランス軍の大半はエルスター河を越えて移動を続けた。ナポレオンは引き続き密集した行軍を部下に望んでいたようで、隊列が延びすぎている点や、車両が多すぎることなどを批判。ウジェーヌに対しては「遅くとも午前5時までに出発し、後尾を縮めて長さを6リューにせよ」といった命令を出している。また密集した行軍がもたらす食糧不足への対応として、ライプツィヒに残ったネイに対し「毎日2万食のパンをドレスデン街道に送り出せ」とも指示している。
続いて秋季戦役だ。8月、休戦中にオーストリアが連合国に加わり、フランス軍の状況は厳しくなった。そんな中で行われたレーヴェンベルク(ルブベク=シロンスキ)からドレスデンへの強行軍についてEscalleは取り上げている。皇帝はヴァンダンムとグーヴィオン=サン=シールに対しボヘミアから来た連合軍への対処を、ウディノにはベルリンへの行軍を任せ、自身は親衛隊、騎兵、マクドナルド、ネイ、ローリストンの軍団などの主力とともにいた。
ナポレオンは21日にシュレジエン方面軍を叩き、22日にはカッツバッハの背後に後退したブリュッヒャーを追撃した。だが1万7000人しか兵力のないサン=シールが圧倒的に数の多いシュヴァルツェンベルクに脅かされ、ピルナからドレスデンへと退却したとの知らせが23日に皇帝のところに届いた。彼はマクドナルドにブリュッヒャーの相手を任せ、またスーアンに第3軍団の指揮を委ねると、強行軍で26日か、場合によっては25日にドレスデンに到着するべく急いだ。またルンブルクのヴァンダンムにも最短ルートでドレスデンに向かうよう指示を出した。
ただしこの時点で具体的な作戦が定まっていたわけではなく、彼は西方への移動中にいくつもの計画を立案した。その計画内容はバラエティーに富んでおり、例えば24日の手紙だと軍はドレスデンとケーニヒシュタインへ行軍し、ポニアトウスキはガベルの隘路を守り、ヴィクトールはアイヒグルーベからバウツェンを経てドレスデンへ、ヴァンダンムはルンブルクからノイシュタットを経てやはりドレスデンへ向かうことになっていた。
翌日、計画は大きく変わった。フランス軍は翌朝5時からの移動で連合軍をボヘミアから切り離すべく、ピルナを経由して彼らの右翼を迂回することになった。しかしこの計画もサン=シールの状況が厳しくなったため修正され、26日午前2時に出された命令ではドレスデンへの行軍を続けることになった。昼前にはドレスデンに26個大隊が到着し、午後にはさらに後続もやってくるとベルティエはサン=シールに伝えている。そしてヴィクトールとマルモンに対してもドレスデンへの到着が緊要だと命じた。
こうした命令の変更は行軍にも混乱をもたらした。当初は各師団が1時間の間を空けて行軍し、またマルモンは親衛隊が使っていたルートを避けるなど混雑を回避するような行軍が行われていた。しかし状況の変化や到着を急がせる命令などの影響から、秩序ある行軍はやがて混乱したドレスデンへの奔流になっていった。ザクセンのアスター中佐によれば、地形や道路が許す限り密集した縦隊が相次いでドレスデンに到着し、歩兵は街道外の平地や時には壁を越えて移動していたという。
ドレスデンに近づくと砲声や対岸の高地に展開する連合軍の姿が見え、行軍はさらに加速した。皇帝は午前10時にドレスデンの橋に到着すると、橋の入り口に立って到着する各部隊にどこへ向かうべきか指示を出した。老親衛隊を先頭に親衛隊、第1騎兵軍団、そしてヴィクトールとマルモンの部隊が次々と到着し、2つの橋を使って戦場に向かった。
この会戦はナポレオンの勝利に終わった。ただし戦争を終わらせるような敵戦力の壊滅にはつながらなかった。Escalleによるとナポレオンが28日に病気になったのが理由だそうだ。そのうえで彼は、ナポレオンが軍隊の力を運動エネルギーになぞらえていることを紹介。スモレンスクでは運動エネルギーを構成する要素のうち質量が主要なファクターとなり、ドレスデンでは逆に速度が重要だったと記している。厳密な理屈はともかく、面白い考え方ではある。
以下次回。
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