ナポレオンの行軍 7

 1812年戦役について触れたEscalleのDes marches dans les armées de Napoléon第2部第4章の続き。1812年戦役において大陸軍の行軍にはこれまで述べた通り不利な条件がそろっており、加えて利用できる道路の少なさや車両の通行用に道路の使用が制限された点などもあって平均速度は低下した。ただその中でもスモレンスクへの行軍においてナポレオンはその才能を大いに示したという。
 同年7月、ナポレオンの関心はバルクライ率いるロシア軍の追撃に集中しており、一方バグラチオンに対してはダヴー率いる右翼が差し向けられていた。27日、前衛部隊がバルクライの全軍を発見し、ナポレオンは決戦に向けて部隊を集結させようとしたが、翌日になるとパーレンの騎兵のみが残りロシア軍の大半は東へ後退した。ナポレオンは29日にヴィテブスクに戻り、1週間ほど兵を休めることにした。
 ミュラの騎兵、第3及び第4軍団、親衛隊はスラジと、ルドニアからヴィテブスクまでの間に宿営し、ダヴーは第1軍団とヴェストファーレン軍、ポーランド軍、グルーシー、ラトゥール=モーブール、コルベールの騎兵とともに接近していた。これに対しロシア側はバルクライとバグラチオンがスモレンスク周辺に集結しようとしていた。
 8月6日頃からナポレオンは、次の攻勢に向けてボリステーヌ(ドニエプル)の左岸に沿って行軍し、スモレンスクを奪い、ロシア軍との会戦に臨む方針を示していた。つまりこの段階から敵の左翼側を迂回する考えは持っていたようだ。ただし具体的なルートは決まっておらず、ダヴーに対して右岸の方が進みやすいかどうか、地形はどうなっているか、騎兵や歩兵を食わせるためのリソースはあるかといった質問を投げかけている。
 ドニエプルを渡る場合、ミュラと第3及び第4軍団はラザスナ付近でそこを渡ることになるため、強力で多数の橋が必要になる。そのためナポレオンは、ダヴーに対して第5、第8軍団やグルーシーの騎兵と共にクラスノエへ進み、騎兵が渡れる十分な橋があるかどうかを確認するよう求めている。また8日にはバビノヴィッチからラザスナまでの旅程を知らせるよう求め、ヴィテブスクから3日間でドニエプルへ、そして6日目にはスモレンスク正面にたどり着きたいとの考えを示している。また彼はダヴーに対して右岸のリョズナやルドニアからスモレンスクまでの道を知らせるとともに、左岸については別ルートも調べてスモレンスクに向かう場合に2つの縦隊で前進できるかも知りたがっている。一方でウジェーヌに対しては、右岸のスラジ、コルイキチ、ラザスナの街道を偵察させている。
 ナポレオンのこうした命令についてEscalleは、驚くほど単純な行軍計画だが大軍を通せる道路が限られているのが理由だろうと指摘している。ただ翌日にはナポレオンは3つの縦隊に分かれた行軍が可能かどうかも問い合わせている。1つは主要街道沿いに、残る2つはその両翼それぞれ2~3リューの位置を通って行軍するというもので、全体の正面幅は18~26キロの範囲にとどまる。bataillon carréのような柔軟性には欠けていたが、それでも強行するか奇襲するかはともかくドニエプル渡河の実行についてははっきり決めていたし、必要ならその前後に会戦も想定していたことが、狭い正面幅の設定からも分かる。
 この時、ナポレオンはインコヴォにいたセバスティアニの部隊がプラートフから激しい攻撃を受けたのを知った。皇帝はすぐに敵の意図を把握し、スモレンスクへ向けた機動が始まった。ナポレオンはドニエプルへと移動し、ラザスナとコミノ間で左岸にいるダヴーの部隊と合流する予定だった。この地域の森を利用して移動を隠し、渡河の後はクラスノエからスモレンスクに進んでロシア軍と決定的な会戦を行うのが彼の計算だった。

 10日朝、ナポレオンは架橋装備と小麦粉の輸送部隊をバビノヴィッチ街道に送り出した。この時点ではロシア軍の意図について不透明な部分があったため、兵たちへの移動命令は夕方になった。さらに悪天候によってフリアン師団への反対行軍が命じられたため、実際の機動開始は翌11日になった。セバスティアニ師団がカバーする背後を大陸軍は南へ進み、ラザスナに架けられた4つの橋と、リウヴァヴィッチからリアドゥイに至る街道上にある2つの橋を使ってドニエプルを渡った。
 渡河手段の面倒を見る役を担ったダヴーは10日、1個土木工兵中隊と2個架橋工兵中隊をラザスナに送った。そしてグルーシーがネイに対して橋があることを伝え、またドニエプルは20ヶ所で渡渉可能と伝えた。モンブリュンの騎兵は12日にリウヴァヴィッチを経て13日夕にはドニエプルを渡り、また渡河後は前衛部隊になる予定だった第3軍団はリョズナからリウヴァヴィッチを経てリアドゥイへ進んだ。第4軍団も13日にラザスナを渡る予定でドニエプルに向かった。
 ギュダン、モラン、フリアンの3個師団はバビノヴィッチ経由で同じくラザスナに向かった。シャスループ将軍は工兵らとともに午前2時に出発し、その背後には親衛工兵が続いた。夜明けには司令部もヴィテブスクを出発した。ルフェーブルは11日に老親衛隊とともにヴィテブスクを発し、2日でバビノヴィッチに到着した。エブレ将軍は縦隊の大半に先行して13日早くにラザスナに到着し、橋を架けた。
 ダヴーは司令部をラザスナに移し、第1軍団の5個師団とクラパレド師団を集めた。グルーシーの騎兵らは架橋を守るべく両岸に展開した。ポニアトウスキとジュノーは13日には左岸のロマノヴォにおり、ラトゥール=モーブールはいつでも主力と合流できるようモヒレフからロマノヴォまでの地域を占拠した。13日夕、ミュラはコミノ村を占拠した。第3軍団、ナンスーティの部隊、モンブリュンの胸甲騎兵とグルーシーの一部はコミノ対岸の右岸におり、夜9時に完成したトレッスル橋を翌日に渡ることになった。
 第4軍団はリョズナからリウヴァヴィッチへ、泥に足を取られながら行軍した。ダヴーは12日夕にラザスナに2つの、ドゥヴロブナに3つの橋を架け、13日朝から渡河を始めた。ダヴーは部下の師団長たちに対し、主要街道を外れて行軍するよう命令を出した。13日夕には第1軍団は長さおよそ6キロの範囲に野営したという。ナポレオン自身もラザスナに到着した。グルーシーの哨戒線はリアドゥイから8ヴェルスタ(8.5キロ)の距離に置かれた。
 14日朝にはロシア軍がドニエプル北方で戦っていると信じていた歩兵5個軍団、騎兵4個軍団と親衛隊は左岸に集まり、18万人が密集してバルクライ(12万人)の背後にあるスモレンスクへ進む準備ができていた。第5及び第8軍団はさらにその右翼側を進み、主力の正面で抵抗があればそれを迂回することになっていた。
 スモレンスク街道上の縦隊は、多くの車両を引き連れていたため、通常の行軍隊列ではまともに移動できなかった。そこで皇帝は歩兵と騎兵に街道の横を通るように命じ、街道は車両用に空けた。幸いにこの辺りは平野が広がり、森に覆われてもいなかったため、移動は割と容易だった。多くの歩兵や騎兵が通ったため街道両側は300歩の幅に至るまで「まるで破壊的な奔流が流れたかのように踏み固められた」。途中に橋があると渋滞が起き、歩兵や騎兵は迅速に通り抜けられたが砲兵や他の車両は大いに遅れた。
 クラパレド師団のブラント将軍は、14日午前9時からの行軍について、分厚い砂煙が兵たちを囲んで数歩先も見えなかったと記している。誰もが先行しようとして、隊列は混乱していたそうだ。街道以外の平野部を通ったことで砂煙が巻き上がり、呼吸すら難しかったという。それでも会戦を望んでいたナポレオンは、できるだけ素早く兵力を集められるように密集した行軍を行った。ロシア軍の騎兵に対抗してすぐ方陣を組むうえでも、密集した行軍は好都合だった。
 もちろん補給の困難、兵たちの疲労、砂煙、そして密集による平均移動速度の低下など、密集行軍には問題もあった。Escalleは、戦争に完璧な回答はないと述べ、より悪くない方を選べれば幸運だと記している。街道自体も悪天候などで使い勝手が悪く、平野部を通りことによるデメリットは少なかった。小川を渡る際の困難はあり、そのために工兵が先行したがどこまで役に立ったかは断言しがたいようだ。
 その後の行軍とスモレンスクの戦いについては目立って行軍に関連するものはない。ロシア軍は会戦を望まず、主力が逃げる時間稼ぎだけを行った。スモレンスクは焼け落ち、ナポレオンは期待した成果を上げられなかった。そのため彼の作戦自体が批判対象となり、直接右岸を進撃すべきだった、スモレンスクを迂回してもっと上流でロシア軍の背後を断つべきだった、あるいは縦隊を減らしすぎたことが敵の後衛の仕事を楽にしてしまった、などの非難が浴びせられることになった。
 だが一方で、この行軍を称賛する者もいる、とEscalleは記している。ブトゥーリン大佐はこの移動が戦役全体でも最も偉大だと述べており、後衛部隊としてナポレオンの進路を妨げたラエフスキーもこの機動は「予測不可能で実行が難しい大胆な一撃の1つ」としている。ナポレオン自身、この機動を1809年のランズフートにおける機動に並ぶものとしており、ラエフスキーの抵抗がなければこれによってロシア軍は背後から攻撃を受けていただろうと見ている。
 以下次回。
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