ナポレオンの行軍 6

 1806年戦役でスールト軍団が採用した密集しての行軍。だがbataillon carréに参加していたのは彼の第4軍団だけではない。他の軍団について、EscalleのDes marches dans les armées de Napoléonはどのように書いているのか。取り上げられている別の事例が、左翼のランヌ軍団によるコーブルクへの行軍だ。
 ランヌが7日夕方にコーブルクに入城したことに対し、ナポレオンは彼を叱責している。「今朝、集団でこの町に入れば、コーブルクにあったものを奪うのも容易だったはず」という理屈であり、つまり敵を奇襲する手段として密集した行軍を活用することを皇帝は考えていたようだ。また野営する際には各師団が方陣で野営するようにとも述べている。おそらくはプロイセン軍の騎兵による襲撃を想定してのものだろう。
 10月10日にフランス軍の捕虜になったザクセンの士官は、翌日フランス軍がザールフェルトの狭い町中を通過した時の様子を見て驚いていた。「障害物に遭遇すると隊列は開き、それからまるで魔法のように僅かな混乱もなく列を詰めた」というのが彼の見解。密集した(正面幅の広い)隊列は隘路を通り抜けるのに苦労するのだが、ブローニュの宿営地以来ずっと訓練を積んでいたこの時期の大陸軍はそのあたりの対応能力が高かった様子が窺える。
 中央で第1軍団の背後から移動していたダヴー軍団も「戦争機動」のために密集していた。彼らは7日にはバンベルクとリヒテンフェルスの間におり、8日にはクロナッハ前面で密集し、翌9日にはローベンシュタインとザール河畔に向かうことになっていたベルナドットを支援するよう命じられた。この時、中央の街道を進んでいた軍勢は7万人に達しており、ナポレオンは先頭を行く第1軍団のできるだけ近くに第3軍団を配置するためにこのような密集での行軍を命じていた。ダヴー軍団は8日夜にはシュタインヴィーゼンとタイゼノルトまでの間に展開しており、その長さは13~14キロだった。
 第3軍団の数を踏まえ、Escalleは8日時点ではダヴーはまだ密集行軍を行う前の準備段階だったか、あるいはこの程度の長さがあっても「戦争」に向いた密集だとダヴーが考えていたかのどちらかだろう、と推測している。それに対しベルティエは10日夕、第3軍団の第1師団をザールブルクに向かわせ、第2と第3師団をローベンシュタインとエバースドルフ間で合流させ、そして軽騎兵をエバースドルフとザールブルク間に差し向けるよう命じている。隊列の長さは8~9キロだそうで、おそらくこのあたりはベルティエの考える「戦争機動」の範囲だと思われる。
 翌日、ダヴー軍団の各師団は1時間の距離を置いて行軍し、騎兵は最初はその後から出発したが行軍中に先頭に立った。各種装備は後から続き、そしてその距離を保ったまま夜には野営した。大陸軍はまずは敵がいると想定したゲラへと進み、それから敵のドレスデンやベルリンへの行軍を妨げるため90度左に転じ、イエナとナウムブルクへ進んだ。
 3つの行軍ルートは互いに十分に離れており、行軍の柔軟性は確保されていた。左に転じる時に、中央や左翼の部隊は互いに邪魔することなくスムーズに方向転換を成し遂げている。各軍団がコンパクトにまとまっていたからこそ、機動性を保ったまま大軍を動かすことが可能だった。それでもプロイセン軍が発見され、皇帝がルフェーブル、スールト、ネイにイエナに向かうよう命じた際には、兵が道路上で混雑する事態は生じた。またダヴー軍団は14日の移動では、砲兵を早く進めるため歩兵を道路から外して移動させる必要に迫られた。

 会戦でプロイセン軍を打ち破った後の追撃になると、部隊が分散して移動することも増えたという。それでも彼らはしばしば用心のために密集したそうで、例えば10月16日の第1軍団での命令では「可能な限り密集し、道路の側面を行軍することで砲兵を前進させやすくせよ」と記されている。11月3日のスールトの命令では、軍団は「戦争機動」を行うことになっており、歩兵は2つの隊列に分かれて中央には砲兵が第3の隊列を形成した。
 しかしこの時点になると兵站上の問題も深刻になっていたようだ。Escalleはこの時期について、兵たちはしばしば食糧の発見を困難にする極端な密集を避けるよう余儀なくされていた、と記している。補給の困難は長い隊列を移動させる物理的な困難よりも重要だと思われていたようで、後方に装備を残したままの前進はさらにこの問題を深刻化させただろう。
 また実際の行軍では各縦隊のルートが重なることもあった。イエナの会戦前になるが、左翼の第5及び第7軍団は、バンベルク周辺で中央の縦隊と同じルートを経由して前進していた。同日には親衛隊なども同じルートを使っており、ナポレオンはそれぞれの部隊が通る時間を調整することでこの問題に対処していた。ただでさえ町中の狭い道を通ったために、おそらく部隊の行軍速度が遅れたり、時には止まったりした場面もあっただろう。
 それでも英仏海峡で訓練を積んだ革命戦争以来の兵士たちは、疲労に耐えてこの行軍を成し遂げた。彼らは長距離の、昼夜を問わず、様々な隊形での行軍を行い、敵に向けて進んだ。元帥たちは勝利に対する兵士たちのプライドを生かしてこの厳しい行軍を成し遂げた。1806年の行軍距離は、それ以前の戦役のみならず、Escalleの同時代における行軍距離すらしのいでいたという。ビュジョーはこうした行軍を成し遂げたその特質について、「野蛮な」と表現している。

 Escalle本の第2部第4章で取り上げるのは1812年戦役、特にスモレンスクの戦いだ。1796年には既に知られた行軍原則のうまい適用に限定していたナポレオンが、1805年にはその配置換えを始め、1806年になるとbataillon carréと軍団の「戦争機動」という発展の第2段階に歩を進めた。1812年戦役では戦闘の状況や、1つの街道上に複数の軍団が集まるという条件も相まって、その発展が頂点を迎えた。
 ナポレオンはロシア遠征において、できるだけ早く会戦を行って戦争を終わらせようと考えていた。彼は自身が率いる主力を集中させ、柔軟性を維持することでこれを達成しようとしたが、この時点で彼が率いていた軍は、かつてブローニュの宿営地で鍛え上げた同質性の高い軍ではなく、扱うのが難しい多様性の高い軍隊だった。大陸軍には多くの外国人が組み入れられており、彼らの熱意は高くなかった。フランス兵についても、かつてに比べれば新兵が多く、その能力は昔の兵に及ばなかった。
 軍の幹部たちの価値も以前よりは減じていた。既に富や名声を得ていた彼らの熱意は低下し、休息を望んでいた。加えてロシア戦役はその始まりから疲労と欠乏に見舞われていた。猛暑や激しい雨、整備されていない道、少ない家々、水の不足などもあって大陸軍の病人は多く、落伍者は増える一方だった。それでもEscalleは、勝利への希望などが彼らを支える場面もあり、時には行軍や戦場において彼らが手柄を挙げたと記している。
 1806年と異なり、歩兵連隊は4個大隊で形成されていた。第1軍団に至っては5番目の大隊も編成するよう命じられていた。大隊は2つのエリート中隊を含む計6個中隊で構成されていたが、それらの実力は非常にばらけていた。何より問題は、皇帝が戦闘以外での兵力の減少を許そうとしなかったため、連隊長は脱走や略奪、病気などで失った兵力について報告を避けたことだ。ロシア遠征の際、表面的に報告されている戦力と実働戦力の間に大きな差があったことは、Escalleの時代から既に知られていたわけだ。
 1809年には歩兵部隊に付属する砲兵が再導入され、連隊あたり3ポンド砲2門と弾薬箱18個などが割り当てられていた。歩兵の質が下がったからこその対応だが、ロシアのような遠方への遠征にあたっては無駄に多すぎる大砲を抱え込む要因となった。またナポレオンは騎兵の数も増やしたが、乗馬と兵士の質は低下し、それが戦役初期から騎兵部隊が恐ろしいほど急激に数を減らす一因となった。
 ロシアの戦場は極めて貧しい地域で行われたため、「40万人を1地点に」集める作戦を実行するには補給の問題がつきまとった。そのため装備部隊を増やし、軽車両を馬匹に、他の車両は牛につないで運ばせようとした。ナポレオンは牛ならばどこでも容易に手に入り、かつ牛用の糧食も簡単に手に入ると考えていたようだが、実際に彼の希望に沿ってモスクワまでついてくることができたのは軽車両だけだった。4頭立ての馬車は重すぎ、遅すぎる牛は彼の期待には応えられなかった。結果的にはいつものように地元の車両に頼ることになったが、報告自体が非常に不正確だったこの戦役ではナポレオンは実情をつかみきれなかったようだ。
 架橋用の装備は1812年初頭にダンツィヒに用意されたが、重すぎたためにコヴノからヴィルナまでの移動は極めて遅かった。時には1日に3~4リューしか進めなかったという。結局のところほとんどの橋はヴィテブスクまでしか運ばれず、モスクワまでついていったのは28個だけだった。救急車両もこれまでにないほど充実していたが、馬匹の損害、軍の移動の早さなどで大半は背後に残され、役立たなかった。
 長くなったので以下次回。
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