ナポレオンの行軍 5

 1805年戦役で勝利した大陸軍はラインからボヘミアまで、マインからドナウ南岸までの地域に展開してそこで休息を取っていた。しかし1806年、プロイセンとの戦争が始まる際に、ナポレオンは9月19日に上マイン地域に軍を集める計画を立てた。
 EscalleのDes marches dans les armées de Napoléonによれば、第1線として第4軍団はアンベルク、第3軍団はバンベルク、第5軍団はケーニヒスホーフェンに、第2線としては第1軍団がニュルンベルクに、第6軍団はアンスパッハに、デュポン師団はヴュルツブルクに、第7軍団はフランクフルト=アム=マインに集められた。軽騎兵は最前線のクロナッハからノルトハルベン地域を守り、予備部隊の残りは遥か後方のシュヴァインフルト、ヴュルツブルク、マーゲントハイム、ニュルンベルクの地域に展開した(このあたりはgoogle map参照)。
 彼らはそこからbataillon carréと呼ばれる陣形を組み、3つの出口からザクセンへ進んだ。それぞれの道では2つの軍団が半日の行程を空けて行軍した。右翼は第4及び第6軍団とバイエルン師団で構成され、バイロイトを経て9日にホーフに到着した。中央は第1及び第3軍団と親衛隊で構成され、バンベルク、リヒテンフェルス、クロナッハを経てローベンシュタイン、ザールブルク、シュライツ、ゲラへと進んだ。中央の前衛はミュラの2個軽騎兵旅団及び第1軍団のワティエ旅団が担った。左翼は第5及び第7軍団がコーブルク、グレーフェンタールからザールフェルトへ向かった。
 これまで見てきたように、敵から遠く離れていた場合でも、敵に接近する局面でも、各縦隊による行軍の手順はそれほど変わらなかった。縦隊の通るルートの減少や、敵が近い場合だと野営が増えるといった変化はあったものの、各部隊が行軍に際して取った正面の幅や隊列の深さ(長さ)は、敵に近づいたからといって特に変わっていなかった。だがナポレオンは、こうした行軍の原則に対して不満を抱いていたようだ。特に彼の心境に大きな影響を与えたのは、会戦直前に戦力を分散させた結果として窮地に陥ったマレンゴの戦いだったという。
 ナポレオンはブローニュ宿営地では長い隊列からの素早い展開について研究していた。ウルム戦役では優位に立つべく兵を密集させるよう、彼とベルティエは何度か元帥たちに指示している。さらにウィーンへの行軍において、皇帝は敵の後尾に襲い掛かる大きな部隊が手元にないことを何度も後悔した。経験から学ぶことに優れていたナポレオンは、最初の遭遇時に戦力の集中を達成するためのより効果的な手段を探し求めており、1806年戦役ではそれを実践に移した。

 部隊の分散あるいは尚早な配置がもたらす不便さに対応するため、彼は戦力をまとめ、どの方面から敵が現れてもすぐ対峙できるような行軍アイデアにこだわっていたという。それがbataillon carréだ。18世紀の戦争では戦闘に至るまではできるだけ行軍を進めるという考えが重視されたが、ナポレオンはあらゆる状況に対応でき、そしてできるだけ敵を惑わせるよう最後の瞬間に戦闘に備えるような隊形を望んでいた。
 皇帝の考えは、軍全体の行軍を定めたbataillon carréだけに反映されていたわけではない。各軍団単位でも同じアイデアを徹底しようと、彼は望んでいた。それを示す分かりやすい例がスールトへの命令に現れている。まず10月25日[ママ、9月?]、第4軍団に対して[10月]3日にアンベルクに到達するよう命令が出された。この時スールトの司令部はパッサウにあり、第1師団はブラウナウ、第2はランズフート、第3はパッサウに、軽騎兵はノイハウスに宿営していた。
 第1と第3師団は27日、第2師団は28日に出発。彼らはまずレーゲンスブルクに向かい、それからレーゲンシュタウフとシュヴァンドルフを経てアンベルクに向かったが、その時点では先頭と最後尾の師団の距離は2日行程だけ空いていた。しかし29日にはナポレオンが新たな行軍手順を命じ、それは10月2日にスールトの下に届いた。3日にアンベルクに、5日にバイロイトに到着するスケジュールで進むのだが、バイロイトに到着した時には「全部隊が集まっている」ようにせよ、との命令だ。部隊は「戦争機動」の状態で4日分のパンを持ち、7日にはホーフに到着して敵を撃退することになっていた。
 スールトの主力は3日時点でアンベルクとフィルゼックの間に宿営しており、騎兵はさらに前方のキルヒェントゥンバッハにいた。予定通りに進んでいたスールトは、命令に対して2日でバイロイトに到着すると返答した。5日、ベルティエはスールトに対し、7日のできるだけ早いうちにバイロイトに到着するよう命じ、その際には「ユサールの最初の入城から1時間で全軍団がバイロイトにいてさらにホーフ街道を数リュー先まで移動できるようにせよ」と指示している。さらに行軍を急いで8日から9日にかけての夜にはミュンヒベルクのところまで到達し、そして「半日行程後にはネイ元帥が続く」ことも伝えている。
 密集した状態でバイロイトに入城せよと命じたのは、ナポレオンが望んだ「戦争機動」En manoeuvre de guerreをベルティエが誤解したのではないか、とEscalleは指摘している。皇帝の希望はあくまで素早く戦闘に移行できるようにいた状態での行軍であった。ただし、ベルティエが自発的にそう判断したのではなく、ナポレオンの口述をそのまま書いた可能性もある。どちらにせよ、重要なのはこの命令が実行可能であったかどうか。Escalleは「極端に密集した」隊形の採用が必要だとしているが、不可能ではなかった。
 まずEscalleは普通の行軍隊形の場合、隊列がどのくらいの長さになったかを計算している。軽騎兵と各師団は2600~3400メートル、砲廠と工兵廠は2000メートルほどで、トータルは14キロ、兵士の間隔を空けた場合は18~19キロの長さになる。荷物を後ろに回して砲兵と救急車両のみが追随する場合、通常でその長さは10キロ弱、間隔を空ければ14キロ強いまで圧縮できる。時速3キロなら3時間もしくは4時間45分、4キロなら2時間半もしくは3時間半かければ全軍団が通り過ぎることができる。一方、荷物類を連れて行けば、時間は4時間40分か6時間以上とかなりの時間を要する。逆に兵の間隔を縮めた場合、長さは5キロ弱、車両を横に2両並べて移動させたとしても全体で7キロにとどまる。
 Escalleはさらに隊列を短くすることも可能だったと推測している。上記の行軍は正面幅が半個中隊(colonne par section)を想定している。この隊列だと正面の幅は8~10メートルだ。騎兵は正面4頭とすれば7~8メートル、車両2両を並べれば4メートルになる。だが当時の主要街道はもっと幅が広かった(鉄道が開通する前であり、街道を通る交通量がもっと多かったため)。Escalleは、実際には1個中隊正面(colonne par peloton)での移動もできたのではないか、そしてそれだけ隊列を短くすれば、道路からはみ出さずとも1時間で軍団を丸ごと通過させるのも可能だったのでは、と想像している。
 さらに兵士の間の距離を極端にまで縮める行軍方法もあり、それを使えば1個師団の隊列の長さを1340メートルから540メートルまで圧縮できたそうだ。とはいえこの方法だとかなり歩きにくくなったと思われるため、必要な時以外に使われたかどうかは不明。またナポレオンはエジプトではマムルーク対策のため方陣での行軍も行ったが、この時はその点を重視していたわけではない。
 いずれにせよ命令を受けたスールトはすぐ対応を取った。6日、彼は3個師団をトゥンドルフとハークの間に集め、7日午前8時には全軍団が街道上で5~6キロの長さになるよう配置した。騎兵はトゥンドルフに、サン=ティレール師団はトゥンバッハ正面におり、彼らはバイロイトに向けて動き出した。各種装備は6日から7日にかけての夜間に出発し、主力の後に続き、この日のうちにクロイセンに到着することになっていた。このあたりの第4軍団の移動についてはp161の地図参照。
 スールトは第4軍団がどのようにバイロイトを通り抜けたかについて詳細な記録を残してはおらず、夕刻に彼らの部隊が占めた場所だけ述べている。地図を見ると、彼らはバイロイト手前からビントロッホまでの狭い範囲にまとまって到着したように見える。7日午前8時に3個師団が占めていた隊列の長さとほとんど同じであり、Escalleが計算したように通常の行軍隊形よりもはるかに密集した形で行軍がなされたことが想像できる。

 bataillon carréはナポレオンの戦役について知っている人間ならどこかで目にしたことはある有名な作戦だ。こちらのツイートには簡単な概念図が示されている。文字通り、どちらの方角から敵の攻撃受けても対処可能で、なおかつ短時間で自軍の集結を図ることができるというのがその特徴。ナポレオンの軍事的才能を示す一例としてよく取り上げられている。
 一方、Escalleが指摘しているような軍団レベルでの密集隊列については、他にあまり指摘を見ない。そうした点について具体的な隊列の形状や道路の広さまで踏まえた計算をしているところが、この本の大きな特徴だろう。なかなか興味深い本であることが分かる。以下次回。
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