オープンレター

 今回はオープンレターの話。といっても国内で盛り上がっているアレではなく、先だって92歳で死去したE. O. Wilsonに関連するオープンレターだ。進化論の世界では超有名人である彼だが、その死を受けてScientific Americanに掲載された記事を問題視する人が出てきたのだ。
 The Complicated Legacy of E. O. Wilsonと題したその記事は、「公正な未来を欲するのなら、彼や他の科学者たちの人種差別的アイデアを考慮に入れる必要がある」という副題の通り、Wilsonをレイシストとして非難する文章だ。著者はカリフォルニア大サンフランシスコ校の准教授らしいのだが、すごいことにWilsonにとどまらずダーウィンやメンデルの名前までまとめてレイシストであると記している。他にこちらでも記事内容(の残念さ)が簡単に紹介されている。
 Wilsonの主張が議論を呼んだ例が過去にあったことは間違いない。社会生物学論争と呼ばれたそれは、特に前半はかなりイデオロギー的な争いとなったが、きっかけはWilsonが1975年に出した書物にある。といってもその本のアイデア自体は彼独自のものというより、研究が進んでいた行動生態学の知見を人間も含めて紹介したような内容だったそうだ。ただ時代が、Turchinの言う父―息子サイクルが盛り上がっていた1970年頃だったために、Wilsonの主張がイデオロギー的な批判につながったのだろう。
 といってもWilsonの仕事はこれ一つではない。というか彼の業績は非常に多く、多岐にわたっているのが特徴。生物学者として、例えばアリ学の世界では昔から世界的権威だったそうだし、むしろ理論家というより観察に基づく現場についての豊富な知見を持つ学者として知られていたようだ。Peter Turchinも彼と数年前に出会ったことは喜びだったと記しており、研究者の間では尊敬されている人物のようだ。
 そうした幅広い実績を持つ死者に対し、過去にあったイデオロギー論争における一方の側からの視点のみに基づいたような記事が掲載されたことに対しては、当然アカデミックな業界内で批判が起きた。その結果として書かれたのが、A rebuttal to “The Complicated Legacy of E. O. Wilson”というオープンレター。Wilsonをレイシストと決めつけた記事には問題が多いということを色々と指摘した内容になっている。
 このオープンレターを自サイトに掲載したRazib Khanによると、彼らは当初これをScientific Americanに載せるよう要請したそうだ。だが同誌の編集長は掲載を拒否。そのためこのような形での公開に至ったらしい。かつて社会生物学論争が盛り上がった時には、Nature誌が双方の言い分を載せて議論の場を提供したそうだが、どうやら現在のScientific American誌はそうした方針を採用しなかったようだ。
 Khanは「かつてジャーナリズムと科学が重要な問題について健全な空気を持つ議論を歓迎し、それどころか要請するほど強靭だった時代を、我々の多くはまざまざと思い出せる。対照的に今日では、かつて科学的アイデアの普及に献身していた出版物への寄稿者たちが、自らの見解についてあまりに繊細になりすぎたため直接的に議論し討論することはできないと判断するようになっている」と苦言を呈している。反対意見を聞くことすら拒否するような「甘やかし」が、米国のアカデミズムに広がっている様子が窺える。

 正直、歴史ある科学雑誌であるScientific Americanにそのような記事が載っていたこと自体に驚いたのだが、同誌のこうした傾向はWilsonの死で急に出てきたものではないらしい。同誌にコラムを書いていたMichael Shermerが昨年11月にScientific American Goes Wokeというエントリーを書いているのだが、その中で彼はこの傾向が少なくとも2018年には始まっていたと言及している。
 同年11月に記した同誌コラムの中で、彼は「子供への虐待の有無と、親が子供時代に虐待を受けていた点の有無」という2つの軸を使った4象限の図を記そうとしたが、同誌の編集は、虐待を受けた子供が成長して虐待をするようになる現象は大きな問題でないと思わせるような表現は困ると指摘。実際には虐待を受けても将来子供を虐待しない人間はいるし、その逆も存在するのであり、科学的な仮説を論じるうえでは他の可能性を否定するのはおかしいとShermerは反論したが、同誌にとってはふさわしくない記事と見なされたようだ。
 さらに12月のコラムでは、「肌の色ではなく性格の中身だけで判断される時代」を夢見たマーティン・ルーサー・キングの言葉を紹介したうえで、実際には彼の夢はアイデンティティ・ポリティクスへと姿を変え、肌の色のみならずジェンダー、セクシャリティ、階級、宗教などなど、様々な軸での分断が進んでいることを指摘。さらにはそれが大学、企業、議会での「迫害オリンピック」と化し、どのカテゴリーが最も歴史的な差別に苦しんできたかを相争うかのようになっていると記した。Scientific Americanはこのコラムの掲載を拒否。結局Shermerは同誌へのコラム掲載自体をやめるに至った。
 彼は1845年創刊の同誌について「かつては科学、技術、工学、医学(STEM)に焦点を当てていたが、今では社会正義問題に転じた」と記している。だからこそ同誌をWoke(日本語訳でお目覚めという言葉が使われるようになっているが、批判側に寄りすぎな印象はあるものの皮肉の利いた翻訳だと思う)と呼んでいるのだろう。同じようなことは生物学者であるJerry Coyneのblogにもある。Scientific American (and math) go full wokeという記事では、冒頭に同誌が「大衆科学雑誌から科学分野の社会正義雑誌」に変わったと記している。

 ShermerもCoyneも同じように問題視している記事がModern Mathematics Confronts Its White, Patriarchal Past。数学分野は白人主義的で父権的な過去と向き合わねばならないという内容で、その証拠として数学や関連分野に進む男性や白人の比率が高いことを指摘している。さらにその分野で差別を受けたという証言を3つほど載せている記事だ。
 これに対しShermerは、そうした分野で女性比率が低い一方、行政学や医学、教育学といった分野では逆に男性の比率が低いことをグラフで指摘。数学や関連分野における女性差別が問題なら、これらの分野における男性差別だって問題ではないかと記している。またCoyneは、特に酷い差別を受けた経験はないという女性教授の逸話を2つ紹介。3つの事例に対して2つの反例を挙げたうえで、こうしたチェリーピッキングな方法ではきちんとした議論はできないとしている。
 ただもっと驚きなのはその後でCoyneが紹介している、高校生を対象とした学力調査の結果だ。特に数学と言語の能力について調べたものだそうだが、まず双方とも高い能力を持つ女子生徒は男子生徒より70%も多く、一方数学能力は高いが言語能力はそうでない傾向を見ると男子生徒の方が女子生徒より倍も多かった。そして男女を問わず、数学能力が高いが言語能力はそうでもない人々はSTEM分野で働く度合いが高く、どちらの能力も高い人々は数学能力のみ高い人ほどSTEM分野には進んでいないという。
 要は男性の方が数学分野に特化した能力の持ち主に偏っており、それがこの分野における男性研究者の比率の高さに表れているという指摘なのだが、最も注目すべきはそこではなく「数学、言語の両能力に優れている女子生徒は男子生徒より7割も多い」という部分だろう。要するに女子生徒の方が男子生徒より頭がいいのである。それもかなりの差をつけて。
 以前こちらのエントリーで、米国における大卒割合(男:女=4:6)ほど「男女間で明確に知能格差があるかどうかは分からない」と書いたのだが、Coyneの紹介する調査結果を信用するなら「男女間には明確に知能格差がある」可能性が高くなる。しかもその能力は言語分野だけでなく数学分野にも及んでいるわけだ。知能については女性の方が正規分布の右端に近く、おそらくはピークも右寄りにあると思われる。
 複雑さが増す現代社会においてはベルカーブの左側にいる人間が落ちこぼれていく、という話が事実なら、このCoyneが紹介しているデータからは「男性の方が落ちこぼれる確率が高い」との結論が出てくる。実際、今の社会が知識社会化しているのは間違いないだろうし、学歴の高い人間ほどその社会に適応しているのもおそらく確かだ。農業社会までなら力仕事がいくつも残っており、筋力で勝る男性にとって落ちこぼれのリスクは低かった。しかし産業社会ではそうはいかない。以前こちらで、道徳が現代社会に合わせてジェンダー平等へと変化しているのではと書いたことがあるが、もしかしたらジェンダー平等ですら生ぬるく、いっそ女性優位なくらいがより現代社会に適応的なのかもしれない。
 いずれにせよこのデータが正しいのだとしたら、やがては学歴が高いのは一般的に女性という時代が来てもおかしくない。エリート内競争の主役が女性になる可能性も、本気で考えた方がいいかもしれない。
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