モンゴルの銃砲? 下

 HawのThe Mongol Empire - the first 'gunpowder empire'?を読んでいると、以前紹介した動画がほぼこちらを元ネタにしていることが分かる。前回書いた、水上での戦闘についてそれっぽいのを何でも大砲に見なすという話は、動画の中にも出てきた。もちろん私が批判した動画内での奇妙な主張、例えば郭宝玉がアムダリア河で使った火箭やプラノ・カルピニの「ギリシャ火」問題も、元ネタはHawだ。
 アムダリアの事例についてHawは火薬が使われたかどうかについて全く述べていないが、その直後には「それ以前にどんな火薬兵器にも直面したことのない兵にとって(中略)大いに士気をくじくものだった」(p459)と記し、火薬が使われたことが当然であるかのように記している。またカルピニの件についても、彼が火薬を知らなかったからギリシャ火に言及したのは「ほぼ確実」(p457)と決めつけている。震天雷を否定したのと同じく恣意的な判断だ。
 これらの事例も含め、Hawはモンゴルが西方遠征に際して使っていた火を使った兵器は、ギリシャ火やナフサではなく火薬だと主張している。例えば世界征服者の歴史を書いたジュヴァイニについても、火薬の実態についてよく知らなかったのか、あるいは「他に使う言葉を思いつかなかったから」火薬兵器に別の用語を充てたという。Hawによればジュヴァイニは「火」と「ナフサ」という言葉を区別して使っており、前者は「実際には爆発性の火薬を意味していた」。中国語の「火薬」についてジュヴァイニは「火」と翻訳しており、そのうえでこちらで紹介した問題のあるサイトからナフサという用語の定義を持ち出して裏付けに使おうとしている。
 だがHawが主張するジュヴァイニの「火」に関する記述をThe History Of The World Conquerorで確認すると、例えばモンゴル軍が火、ナフサ、石を投じたという部分(p92)や、火が要塞の中に投じられたという部分(p106)には、爆発性の火薬なら伴うであろう「音」に関する記述がない。またHawが引用しているアラムート城の攻撃シーンにおいても「多くの兵たちがこの流星のような矢によって焼かれた」(p458)と書かれてはいるが、やはり音に関する記述は見当たらない。同じ文章を引用しているMayのThe Mongol Conquests in World Historyを見ても、音に触れていないことが分かる(p147)。
 一応Hawは武經總要の中に出てくる弩を論拠として出してはいる。アラムートで使われた弩の名称kaman-i-favは「牡牛の弓」という意味であり、一方で武經總要では大型の弩について「亦名八牛弩」(14/141)と記している。確かに、アラムートの弩の名前が牡牛の弓という意味だったことは、Mongol Diplomacy of the Alamut Period(p321)などでも示されているし、中国でバリスタのような大型の弩に牛に関する名がついていたのはNomadic Power, Sedentary Security, and the Crossbow(p88)にも言及がある。
 何より武經總要ではこの弩から撃ち出す箭に「可施火薬」と書かれている(15/141)。もちろん武經總要の火薬は爆発性のものではないが、モンゴルの西征時には爆発性の火薬が生まれていたのだから「弩の矢には火薬が付属していたことを示唆しているし、その火薬は爆発性だった可能性が高い」とHawは結論づけている。アラムート城が1日しか持ちこたえなかったのがその理由だそうだ。人によってはこの説明で納得するのかもしれないが、私には極めて単純な技術決定論を振りかざしているだけで、具体的証拠がない分だけ説得力に欠けると思える。
 さらにモンゴル軍の投石機の破壊力についていくつか言及した後で、Hawは改めてモンゴル軍によるロシア攻略の話をするのだが、今度は載せているのがノヴゴロド年代記からの引用だ。そこにはモンゴル軍が「町を奪って火をつけた」(p83)という記述があるのだが、Hawはこれを否定し、驚いたことにカルピニの記録を持ち出して町は奪われる前に焼夷性の火薬兵器を投げ込んだ投石機によって焼かれたはずだと主張している(p461)。少し前にカルピニについて「あまり信頼できない目撃者」(p457)と言っておきながら、自分に都合のいいカルピニの証言は無批判で取り入れているわけだ。
 もちろんHawにかかれば、レグニツァの戦いも火薬の使用例となる。彼によればポーランド軍が魔法と断じた煙も「モンゴル軍が単に中国の武器を使ったと問題なく推測できる」(p462)そうだが、面倒になったのかなぜそう言えるのかについての説明は放棄。そしてこの煙は投石機から投げられた爆弾か、もしくは火槍から噴き出されたものかもしれないとさらに想像の翼を広げている。そのうえでようやくイングランドで記録されたロシアの大司教の話を裏付けとして引っ張り出しているのだが、そこには「鉄と毒の武器」、及び投石機を使ったことは書かれているものの、火薬はもとより火の使用についての言及すらない(p463)。
 そして最後に彼は、最近までモンゴルが大砲を使った件については「まったくありそうもない」とされていたが、実際は「モンゴルの征服は中国の攻城兵器と中国の火薬兵器によって可能になった」のであり、モンゴルこそが「最初のいわゆる『火薬帝国』であったとの議論もあり得る」と宣言。さらにはモンゴル軍の火薬兵器使用によって1250年には敵の多くがその存在を知り、それこそがモンゴル軍の征服の勢いを削いだ理由だとまで言い放っている(p463-464)。どうやら彼の世界では火薬こそが全てを説明できる万能理論の根本原則であるらしい。
 もちろんこれらの議論は牽強付会すぎて、まともに取り扱う必要はない。そもそもHaw自身の説明を全部読んでも、モンゴル軍が東アジア以外で火薬兵器を使ったという決定的な証拠はどこにもない。Mayが記しているように、考古学的な証拠が出てきたならともかく、「モンゴル帝国の解体以前[13世紀半ばまで]に、中国外で火薬兵器が存在したと証明するには、文献学では不十分」(p152)なのだ。そう考えれば、皮肉にもHaw自身が認めているように、モンゴル人が中国から追い払われた後に火薬技術を失ったように見える(p456)理由も分かる。結局のところ火薬を使っていたのは中国人であって、モンゴル人ではなかったのだろう。

 Hawの議論には役に立つ部分もある、ということは前に指摘した。そこに書かれているような内容以外にも、例えば13世紀の早い段階でモンゴル側に転じた漢人の将軍たちの話や、モンゴル人で投石機の使用に携わったものたちの紹介など、いろいろと興味深いものも載っている。また彼の文章について調べているうちに、古いものだがThe Early Development of Firearms in Chinaのように元ネタを多数記している文献にぶつかったのも僥倖と言える。
 前にも言ったが、Hawは時代を下ったところではかなりまともなことも書いている。明によって中国本土から追い払われた後の彼らは、確かに火薬を使わなくなっていたようだ。Hawが紹介している通り(p454)、永楽帝の北方での戦争について記した北征記には、モンゴル軍への対処策として「先以神機銃攻之」、つまり先に火器で攻撃し、それから弓や弩を使うようにと書かれている。
 また1414年の戦闘でモンゴル軍が明の銃を相手に何度も敗北した話もHawは紹介している(p455)。こちらは金文靖公北征録に載っている話で、確かにそこには山から下って来た敵に対し「迎戦火銃四発寇驚棄馬而走」という文字がある(72/82)。その後、彼らは「恐火銃」(73/82)となったようで、当時の銃の威力を示す例だ。
 これらの論拠に基づき、HawはChaseの唱えた「乾燥地帯では初期の火薬兵器は有効ではなかった」説に疑問を唱え、中国で火薬兵器の発展が止まったのは単純に戦争がなくなったからだと指摘している(p455-456)。Andradeと同じ見解であり、私もこの主張については特におかしいものだとは思わない。こうした主張だけなら、彼の文章を敢えてここまで細かく取り上げることもなかっただろう。とにかく古い時代になるとトンデモ説が増える。
 Hawの言い分はそのまま信用していいものではない。リテラシーを鍛える反面教師としてはいいが、テーマがマニアックすぎるので実用には向かないだろう。こちらの本のように広いテーマを扱っている方がツッコミやすい。だからよほど関心がある人以外は読まない方がいい文章だと思う。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント