エリートと高等教育

 高等教育を受けた人の増加がエリート過剰生産の原因になっているわけではない。むしろ高等教育の増加はエリート過剰生産の結果と考えた方がいい、という話を紹介しておこう。少なくとも最初にStructural-Demographis Theoryを唱えたGoldstoneはそういう認識だった。
 彼の書いたRevolution and Rebellion in the Early Modern Worldの中には、17世紀のイングランドにおけるエリート過剰生産の背景について色々と書いている部分がある。一つには経済成長が続く中で、エリートたちの家庭における再生産(要するに子供の数)が増加していた。そのうち資産の継承ができる長男を除いた面々は、どこかでエリートにふさわしい収入源を新たに見つけなければならない。エリート全体の増加率に比べてこの「いいとこの次男坊三男坊」の増加率ははるかに大きく、彼らの間での生き残り競争はそれだけ激化した。
 加えてインフレ下で上手くやった大衆の中から、エリートへと登り詰める者が出てきやすくなっていた。特にこの時期の英国では地主に長期の契約で(つまりインフレ下では実質的に次第に安くなる)小作料を払いつつ、収穫した農作物はインフレ後の高値で売ることで大儲けした大衆がおり、彼らは今度は自分たちがエリートの地位を目指して動きだしていた。もちろん一方ではエリートとしての見せびらかし消費に耐えられずに土地を売り払って落ちぶれる地主もいたが、全体としてはエリートの数が大幅に増えていったことが指摘されている。
 そのうえでGoldstoneは「エリートの社会的流動性と競争の指数」として大学の拡大を取り上げると説明している。インフレ期にあたる1540年から1630年までにオクスフォードやケンブリッジなどの入学者数は実に4倍にも拡大した。一方、革命や内戦を通じてエリート過剰生産が落ち着いた後、これらの大学の入学者数は1630年代の半分まで落ち込んだ。人口は革命後も横ばいだったことを考えるなら、これは単純に大学の学位に対する需要が減ったのだと考えられる。
 学位がもたらすのは、もちろん法律職や教会職といった具体的な地位のこともあるし、それ以外に上流階級としての信頼度もある。それを求めて大学に殺到したのは、一つには「いいとこの次男坊三男坊」たちであり、そして何より成功した大衆たちによる「息子たちをジェントルマンにしよう」という試みがこの事態を引き起こしていた。インフレ期より前の1562年には地方の名士たちのうち大学に行ったものは半数以下だったが、1636年には84%が大学を経験していたという。
 この時代においては、高等教育を受けた者が増えたからエリート内競争が激化したのではない。エリート内競争で少しでも有利な位置を占めようと考えた者たちが大学を「エリートへの通行手形」として利用しようとしたのだ。つまり因果の矢印的には「高等教育増→エリート過剰生産」ではなく「インフレ→エリート過剰生産→高等教育増」という流れになる。

 一方、TurchinがAges of Discordで詳細に取り上げている米国の事例では、「高等教育の増加抑制→エリート過剰生産の抑制」というメカニズムが働いていたとしている。有力大学による入学者受け入れ方針の変更が支配エリート間の競争を抑制する効果を持っていたと彼は解釈している。少なくとも医科大や歯科大が意図的に入学者を抑制したのは間違いないようで、Turchinはそれが20世紀前半に起きた不和の時代から第2次好感情の時代への移行をもたらした一つの原因と考えているようだ。
 そうした想定に基づくなら、Noah Smithの言う通り「エリートの生産を抑制する」のが解決策として提示されるのも当然だろう。それは実際には「エリートへの門戸を閉ざす」一種の差別的な階級政策になりかねないし、Turchin自身もそうした側面には触れているのだが、それでもこの方法で安定を確保できるのならこの策を取るべきだと考える人もいるだろう。
 ただしこの策が成立するためには、「高等教育増→エリート過剰生産」という因果関係が本当に成り立つかどうかを調べる必要がある。そしてこの点はTurchinの本を見ても必ずしも自明ではない。例えば高等教育への需要を示すイェール大学費のグラフと、政治的対立を示す下院での両極化指標を比べると、19世紀には1820年頃を底に下院での両極化が進んだのに対し、イェール大の学費が底を打って上昇し始めたのは1860年代だ。一方、下院両極化がピークから低下を始めたのは1910年頃だったのに対し、イェールの学費は1880年をピークに先に下がっているものの、1910年代にもう一回上昇して1930年頃に2度目のピークをつけている。そして20世紀に下院両極化が底を打ったのが1950年の少し前であるのに対し、イェールの学費は1950年の少し後が底だ。
 もし高学歴の増加がエリートの過剰生産とエリート内競争をもたらすのなら、大学の需要が増えた後に20~30年ほどの時間を置いて政治の両極化が進む方が辻褄が合うだろう。だがそうした明確な傾向は存在せず、両者は相前後しながら似たようなタイミングで方向転換をしている。これはむしろGoldstoneの言うように「大学の入学は、エリート過剰生産を受けて子供たちに箔をつけようとする親が増えた結果」と考える方が理屈に合うのではなかろうか。
 もっと範囲を広げ、政治ストレス指数全体を調べてみよう。見れば分かる通り、少なくとも足元でエリートに絡むEMPがが上昇を始めたのは、大衆絡みのMMPや政府の能力を示すSFDが底を打った時(それぞれ1961年と65年)より1世代ほど遅い1984年だ。つまり不和の時代へと至る構造的変化は、まず大衆や政府の方に影響を及ぼし、それからエリートに波及効果が届くと考えられる。エリート人口割合が底を打ったのもほぼその時期。エリートの過剰生産が始まるのは、他の構造的要因が働き始めた後の出来事だと考えられる。

 高等教育の増加はエリート過剰生産の原因ではなく結果だとしたら、高等教育の門戸を閉ざしても問題は解決しない。20世紀初頭にそれが成功したように見えたのは、たまたま同じタイミングでエリート過剰生産を止めるような本当の原因が生じていたためだろう。前にも書いている通り、米国が世界の覇権を握る形で新しい成長軌道に乗ったことこそ、エリート過剰を終わらせた真の要因ではないかと個人的には思っている。
 そして、新たな成長が不和の時代を終わらせる根本要因だというこの想定が正しいのなら、またイノベーションを意図的に起こせない以上、狙って「成長戦略」を実現させるのが無理だとしたら、不和の時代を終わらせるのは実際には不可能だ、という結論になる。少なくとも「高等教育を減らせばいい」と言うのは、時計の針を逆に回せば時を遡れると主張するようなものだ。
 それよりもっと現実的な方法を求めるのなら、格差縮減がそれに相当するのだろう。少なくとも大衆の困窮度は改善し、社会ストレス指数の一部は改善される。ただしエリートの不満は爆発するのが目に見えているため、それを黙らせなければならなくなる。一番手っ取り早いのはエリートの数を強制的に減らすことであり、つまりScheidelの言う通り「平等をもたらすのは暴力だけ」という主張に行き着く。やはり暴力、暴力は全てを解決する
 ……真面目にオチをつけるなら、不安定性に対して一つ一つちまちまと対策を打っていくことで少しでもトラブルを減らす、という対応しかないのだろう。不和の時代を解決する能力は誰も持たないが、運が良ければ程度を緩和するくらいはできる、かもしれない。そうやって時間稼ぎをしつつ、次のイノベーションが新たな成長をもたらすのを待つ。もしくは自分だけは不安定化の波にのまれないよう生き残り策を模索する。とりあえず思いつくのはそんなところだ。
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