火器伝来・インド編

 欧州からアジアへの火器伝播のうち、ポルトガルがつないだ海上ルートについて記した。ではもう1つの陸上ルート、イスラム教ルートは、どのように機能したのだろうか。
 インドに火器が伝わった時期については、こちらこちらこちらで触れている。文献史料によると15世紀の中頃までにはインドで火器が使われており、もしかしたら中国経由で伝わっていた可能性があるという。
 とはいえ文献史料には当てにならないものもある。物的証拠が残る考古学資料も合わせて考えた方が確実性は高いだろう。Eatonらが記したWarfare on the Deccan Plateau, 1450-1600によると、1460年代以降に建造されたデカーン高原の各要塞には、いわゆるガンポート(銃眼)の存在が確認できるそうだ。Eatonらは、おそらくエジプトのマムルーク朝経由で火器が伝播したのだと想定している。インドで見つかる初期の大砲は、15世紀末から16世紀初頭にオスマン帝国がマムルークから奪取した大砲と同じ特徴があるそうだ(p10-14)。
 16世紀に入ると、マムルークよりもオスマン帝国の方がインドへ及ぼす影響が大きくなったようだ。Guns for the Sultanを書いたAgostonのFirangi, Zarbzan, and Rum Dasturiによれば、ポルトガルがインド洋沿岸に拠点を構築し始めたのを受け、マムルーク朝の要請を受けたオスマンが軍事援助を開始。1508年のチャウルの海戦では、ポルトガルと戦ったマムルーク=グジャラート連合軍の中に多くの「ルーム人」(オスマン帝国人)がいた。1510年にゴアを落とした時、アルブケルケはルーム人が積み上げた火器などの武器をそこで見つけたという(p96-98)。
 より直接的にオスマン帝国の影響が見られるのはムガールだ。何しろ初代皇帝バーブル自身、「オスマン風」の戦い方をしていたと記述していたくらい。ムガールのマッチロックがオスマン帝国経由のものであることは前にも指摘したが、銃だけでなく後装式の大砲であるフィランギ、小型の大砲を意味するザルブザンといったオスマン帝国の用語が、インドでも見受けられる。後者は重さ150グラムから2.5キロほどの砲弾を撃ち出していたようだ(p99-101)。
 なお、オスマン帝国の影響による火器の普及としては、チャルディラーンで敗れたサファヴィー朝の例もある。ただしこちらは最盛期でも銃兵の数が1万~1万5000人ほど(16世紀末から17世紀初頭)だったそうで、同時期の日本よりおそらくずっと少なかったようだ(p94-95)。

 ムガール帝国の火薬兵器については、KhanがThe Matchlock Musket in the Mughal Empireで色々と説明している。ドイツからオスマン帝国経由で入ってきたこのマッチロックは、どうやらムガール帝国ではかなり長期にわたって重宝されていた兵器らしい。Khanによるとマッチロック兵については帝国中央政府が資金負担をしたうえで、各領主たちが自分の軍勢に組み込むといった運用をしていたそうだ。
 雇用主が中央政府であるため、この兵科については中央からの統制がかなり効いていたように見える。アクバル大帝の下では各領主たちは自分たちが動員する騎兵の半分まで歩兵を動員することが認められており、そのうちマッチロック銃兵は4分の1(騎兵と比べると8分の1)に限定されていた(p345)。後にこの比率は20%近くまで増えた(p350)ものの、ムガールの軍勢全体に占める比率は13%程度にすぎず、16世紀末の時点でもムガール全体の銃兵は3万5000人前後(p348)、17世紀半ばで銃兵と砲兵、ロケット兵が合わせて4万人(p349)だったそうだ。これまた同時期の日本と比べてもむしろ少ない方だろう。
 日本や西欧ほど多くはなかったものの、これらの兵はかなり役に立つ部隊だったという。特に効果的だったのが村々の反乱に対応する兵力としてであり、つまり一種の対ゲリラ戦兵科だった。途中からより効果を高めるためにマッチロック銃兵を馬に乗せるようになったそうで、馬上からの狙撃は難しかったようだが、元から散り散りに逃げることが得意だったゲリラ相手には追撃しやすい馬上マッチロック兵はそれなりに役立ったようだ。
 ただし、これはあくまで暴徒のような連中を相手にする場合。本格的な戦いとなるとRoyが指摘している通り、馬上から高い頻度で矢を射ることができる騎馬弓兵の方が効果的だったそうだ。またマッチロック頼りだったムガールの軍事は、この銃が容易に安く手に入るようになったことで、ムガールに抵抗する者たちに武力を与える原因ともなった。Khanの本に関するMayの書評を見ると、マッチロックは最終的に中央権力の崩壊をもたらしたそうだ。
 ちなみにMayはKhanの本のうち、13世紀にモンゴル軍がインドへ火薬をもたらしたという部分には異論を述べている。彼はモンゴル軍が西征に際して火薬を使わなかったとの立場なので、これは当然の異論だろう。

 以上、インドにやってきた陸上ルート(イスラム教ルート)の火器がどのように広まったかについて簡単なところを紹介した。面白いのは、伝播してきた軍事技術が現地でどのように受け入れられたか。ムガールのマスケット銃もそうだが、Eatonらは同様に16世紀のデカーン高原で、他の地域とは異なる形で火器の受容が進んだ点を指摘している。
 Warfare on the Deccan Plateau, 1450-1600によると、1520年のライチュールの戦いでは、火器を揃えたバフマニー朝の方が、あまり火器に頼らなかったヴィジャヤナガル王国相手に敗北したという。前者(イスラム教徒)は、野戦では全部の大砲をまとめて発射したために再装填している間に騎兵の攻撃を受け、要塞では動かしにくい大砲を城壁の上に置いたため接近してくる敵を撃退できなかった(p17-20)。だがバフマニー朝の後を継いだムスリム5王国の技術者たちは、この失敗で火器を捨てるのではなく、むしろよりよい使い方を編み出そうとした。
 中でも最も特徴的なのは、要塞の最も高いところにさらに基台を築き、その上に360度どの方向にも向くことができる大型旋回砲を設置した点だろう(p29-33)。ここに配置された大砲は、敵がどの方角から攻めてきてもそちらに向けて砲撃を加えることができる。ビジャプールの要塞の場合、24メートルの基台の上に長さ9メートルを超える大砲を設置。高い位置にある巨大砲は、単に敵を威圧するだけでなく、必要に応じて実際に敵の撃退に使えるよう作られたものだったそうだ。
 このような要塞構築法は、欧州で発展したルネサンス式要塞とはおよそ発想法が異なっている。欧州の場合は要塞が地面に這いつくばるような姿をしており、大砲は旋回させるのではなく数を揃えて死角をなくすよう配置した。平野が中心である欧州の地勢に合わせたものなのだろう。一方、比較的平坦な高原にいくつもの高い丘があり、そこが昔から戦争の拠点として使われていたデカーン高原では、むしろその高さに大砲の使い方を合わせるように技術が発展した。日本や中国での火器受容ともまた異なる、とても面白い動きだ。
 Eatonらはいわゆる「軍事革命」が想定するような因果の鎖が、デカーンでは働かなかったとしている。軍事革命では欧州で起きた「大砲の登場」→「新たな要塞」→「大規模歩兵」→「効果的な行政と課税」といった流れを重視しているのだが、これは欧州以外でも必ず起きた現象ではない。むしろ同じく軍事革命論に異論を呈しているBlackの言う「軍事的適応」の方が、デカーンで起きた現象の説明としてはふさわしいとの議論だ(p48)。この点はデカーン高原以外でも当てはまるかもしれない。
 なお火薬を生かした軍事技術の洗練に努めてきたムスリム5王国は、1565年、同盟を結んで再びヴィジャヤナガル王国と戦争をした。タリコタの戦いで今度はムスリム側が勝利し、彼らと違って火薬を使った要塞建築を怠ってきたヴィジャヤナガルの首都はイスラム教勢力に蹂躙された。だが勝ったムスリム5王国はすぐに互いに相争い、やがてムガールに飲み込まれる。諸行無常である。
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