ポルトガル火器史

 16世紀前半に中国や日本に伝わったマッチロックは、1510年代にはインドのゴアで生産が本格化したインド=ボルトガル式の銃であろうという話を紹介した。さらにアルブケルケが国王宛に記した手紙から、この銃がボヘミアで製造されていたものと共通の特徴を持っていた点も指摘した。こうした研究を手掛けているのはポルトガルの歴史家、Rainer Daehnhardtである。
 火器の伝播においてポルトガルが果たした役割は大きい。この国がそうした影響を及ぼすようになったのは、エンリケ航海王子のおかげだ。彼の功績としては大航海時代の幕開けとなる様々な探検事業を支援したことが知られているが、Daehnhardtによればむしろ彼の下でポルトガルが全欧州からかき集めた「先進的な航海技術の知識」、というか航海以外も含めた様々な先進技術の蓄積こそが重要だったようだ(Early Gunmaking in the Portuguese World, 1450-1650)。
 例えば15世紀初頭の時点では艦船に大きな火器を載せて撃つことを誰も考えなかったが、エンリケの支援した艦船は大砲を載せ、大勢の敵(主にイスラム教徒)を相手に少数で勝利できるようになった。船上で取り回しやすい後装式の火器がこの時期に増えたことも寄与したのだろう。加えてポルトガルはドイツ、オランダ、フランス、イタリアなどから続々と砲兵親方を呼び寄せ、彼らの技術を生かして最先端の兵器を艦船に詰め込んだ。
 ただしポルトガルが向かったインド洋は、スペインが侵攻したアメリカ大陸とは異なり、他のルートを通じて火薬兵器が広まっていた地域でもあった。以前エチオピアがマムルーク朝やオスマン帝国経由で火薬兵器を手に入れていたことを書いたが、サブサハラ・アフリカだけでなく、ペルシャやアラビア、インドにもこうしたイスラム経由の兵器は伝播していたようだ。これらの兵器は1470年代のドイツに淵源を持つものだったという。
 一方、ポルトガルは大量の火器の需要を外国、特にボヘミアからの輸入で賄っていたそうだ。このボヘミア式の火薬兵器を彼らは喜望峰経由でインド洋沿岸に運んだ。つまり、大航海時代には西欧からインド亜大陸へと、2つのルートで火器が流れ込んできたのである。ドイツからオスマン帝国を経てやってきたイスラム教=陸上ルート、そしてボヘミアからリスボンを経てたどり着いたポルトガル=海上ルートだ。
 Mughal Warfareによると、後にムガール帝国が採用したのはこのうち陸上ルートを経てやってきたものとなる(p155)。この銃は点火機構の大半が銃床内に収められており、火縄をセットするハンマーの先端部と、引き金部分のみしか外には出ていなかったのが特徴。ハンマーは銃尾から銃口の方に向けて落ちるようになっており、これは欧州の一般的なマッチロックとは向きが逆だ。
 一方、海上ルートから来たものは、同じようにハンマーは銃尾から銃口に向けて落ちるようになっているが、前にも書いた通り、ムガール帝国などが使ったシア式ではなくスナップ式だった。このマッチロックがインド洋のポルトガル拠点を通じて日本にまで到達した流れについては、例えばこちらの図などでも紹介されているが、もっと詳しいのがある。
 それがこちらの掲示板に載っているマッチロック機構の系統図だ。15世紀後半のニュルンベルクのマッチロックは、実際は見ての通りサーペンタインロックであるが、これが世紀の変わる前後にドイツタイプ(TYPE 3)とボヘミアのシュナップ=ルンテ(TYPE 4)とに分かれた。16世紀には前者がオスマン帝国のマッチロックに、後者がインド=ポルトガル式になり、さらにそれから前者はムガール帝国に、後者は日本の火縄銃の他にシンハラ=マレー式に変化していった様子が窺える。
 シュナップ=ルンテやインド=ポルトガル式については、もう少し詳しい説明も載っている。図を見ただけだと分かりにくいかもしれないが、前者はボタンを押すと留め金が外れ、バネの力でハンマーが落ちるようになっている。日本の火縄銃のようにバネがV字型をしていないところに違いがあるが、機能としては両者はかなり似通っている。こうした特徴を見ても、また鉄炮記にポルトガル人の手で伝来したとある点からも、このインド=ポルトガル式、遡るとボヘミアのシュナップ=ルンテが日本の火縄銃の淵源になる。
 もちろんこれはあくまで大きな流れを記したもので、さらに細かく見れば事態はおそらくもっと複雑だ。こちらの記事によれば、例えばイングランド式のマッチロックと同じ特徴を持つ火縄銃があるし、あるいはムガールからイスラム教のルートでマレーまで来ていたドイツ式の流れも、何らかの形で日本に届いていたのではないかという。前に書いた通り火器の伝播も、大雑把な理解とは別に細かく見ていけば非常に複雑な実態が浮かび上がってくる。

 火薬兵器の発達はもちろんマッチロック以降も続いた。上に紹介したEarly Gunmaking in the Portuguese World, 1450-1650の主題は、むしろマッチロックの後、フリントロックの時代にどのような発展があったかである。以前にこちらで簡単に紹介したように、いわゆる真のフリントロック(火蓋と当たり金が一体化しており、ヴァーティカル・シアを使う)が生まれたのは17世紀初頭である。ただし、Daehnhardtは「真のフリントロック」以前にフリントを使った様々なフリントロックが既に生まれていた点を強調している。
 真のフリントロック、あるいはフランス式フリントロックが生まれる前から存在していたものとしてはミケレットロックの話を前に述べた。またスナップハンスやスナップロックという名前で呼ばれたフリントロックが16世紀半ばには生まれていたことも言及済みだ。そして、それ以外にも実は多数の「フリントロック」が、例えばポルトガルだけで実に17種類も存在していたとDaehnhardtは記している(p1)。古いものになると1530-1550年頃には既に生まれていたくらいで、彼はフリントロックの起源がホイールロックとほぼ同時期ではないか、とまで言っている(p3)。
 ボヘミアのシュナップ=ルンテのようにハンマーを落とすようにバネが働く仕組みからフリントロックを思いつくまでは、あまり時間はかからないだろう。Daehnhardtによれば中央ヨーロッパでは100円ライターのようにフリントを金属とこすり合わせて点火しており、それがホイールロックの誕生に結び付いた。一方、イベリア半島では鉄をフリントに叩きつけて点火する方法が取られており、シュナップ=ルンテと同じ方法を使ってフリントを当たり金にぶつける方法がそこから生まれたのだと推測している。

 ただしポルトガルの全盛期は決して長くはなかった。王家の継承危機からポルトガルは1580年にはスペインとの同君連合下に置かれる。その8年後に行なわれたフェリペ2世によるアルマダの海戦では多くのスペイン艦船がブリテン諸島周辺で敗れ去ったが、実はこの艦隊の多くはポルトガルの艦船であり、また搭載されている武器の多くはリスボンで製造されたものだったという(p5)。イングランドでの武器製造はフランスのユグノーの影響を受けたものと言われているが、それ以外の影響もあったわけだ。
 ポルトガルは1640年に反乱を起こしてスペインから独立を図るが、実際に再独立を達成するまでには28年もの年月を要した。加えてその前後にはインド洋の植民地の大半を喪失。1511年に手に入れたマラッカは1641年にオランダに奪われた。ゴアはポルトガルの植民地として20世紀まで保持できたが、他のインド植民地はそれより前に地元勢力などに奪われていった
 日本にいるとポルトガルの歴史について知る機会はあまりない。彼らの作り上げた植民地帝国にしても、せいぜいトルデシリャス条約という名前を聞くくらいだろうか。だが調べてみると、一筋縄では行かないような複雑な絡み合いが、ユーラシアの両端に分かれている国の間にも存在していたわけだ。
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