次に士気に与えた効果であり、これは国民公会がうまく生み出した。これについてもLéviは議論の余地なく効果があったとしている。ただし、その効果は一時的で、すぐ落胆が訪れた。例えばベルグ地区の記録にも「我らの兵はあらゆる場所で勝利した」と記されている。ベルトルミが戦い当日に書いた報告書の中には、片腕を砲弾に吹き飛ばされながらもう片腕を祖国のために捧げようとした擲弾兵の話が紹介され、「本日のような勝利がもう少しあれば、共和国は暴君たちに勝利するであろう」と高らかに宣告されている(p567-569)。
同じく8日にルヴァスールとデルブレルが書いた報告にも、「当初はあまり重要でないと思ったこの戦いは、そこに閉じこもって塹壕を掘っていた敵の数と、彼らが見せた抵抗から、とても重要なものになった」と書かれている(p569-570)。リールにいた他の派遣議員たちはこの勝利を褒め称える文章を書いており、その中には「英国への帰還の許しを求めた英国の将軍に対し、ウシャール将軍がもはや戦争を行わないと約束させてそれを認めた」という、どこから出てきたのか分からない話もある(p570-572)。
パリも欣喜雀躍した。国民公会はさっそく布告を出し、ベルグとダンケルクの市民たち、負傷したジュールダンとコロー、あるいは個別に活躍した兵たちに感謝の手紙を書いた。またレクスプードにいた連合軍をエドゥーヴィユが追い払った件についても議会の会合で報告されている(p572-573)。そして17日には公安委員会のメンバーからの喜びの手紙も出されており、春から苦戦続きだったフランスにとってこの戦いがどれだけ救いになったかが窺える(p574)。
3つ目に挙げられているのは、軍の動きだ。北方軍はダンケルク解囲に動いた部隊以外にも各地で活動しており、それらの動向が紹介されている。オスコットの勝利後、ウシャールはまずデュメニー師団を増援することを考えた。彼はエドゥーヴィユ師団と、メナン方面にいるブリュ将軍の師団にデュメニーを増援させ、この方面のオランダ軍1万を打ち破ろうとした。彼らは9日に出発。ウシャールは他の部隊とともにオスコットに2日間とどまり、英軍がオランダ軍救援に向かわぬよう牽制した。
続いてウシャールは12日夕に、軍の残りは13日にリールに到着し、シソワン(リール南東)の宿営地を攻撃しようとした。だが12日から13日にかけての夜間にカンブレーから救援の要請が届き、ウシャールは作戦を諦めてカンブレーとブシェンの守備隊に増援を送り込むために動くことにした。メナン方面では前衛部隊に対しコルトレイク方面へ向かうように命じたが、この移動は遅れ、ボーリュー将軍に先んじて13日夜に到着する時間を与えた。一方、コーブルクが5万人を率いて14日にこの地に駆け付けたことで、ケノワの包囲は11日に解かれた(p574-576)。
ゲイ=ヴェルノンによれば、ウシャールはまず全軍でフールネを攻撃するという噂を流した。砲兵は前衛部隊に送られ、ルクレールとヴァンダンムにはこの町の接近路を占拠するよう命令が下った。だが11日朝、エドゥーヴィユ師団とコローの猟歩兵はホウテムを離れ、ルースブルッヘからポペリンヘを経てバイユールでデュメニーと合流。1万2000人の部隊もガヴレルへと戻った。しかしデュメニー、エドゥーヴィユ、ブリュらは時間を浪費してしまったという。ゲイ=ヴェルノンは、11日から13日までウシャールがオスコット、アルマンティエール、リールなどで時間を費やしたのは間違いだったとしている(p576)。
ウシャールが自らの優位を生かす方法を知っていれば、我々の勝利はより重要な結果をもたらしただろうと述べているのはラユールだ。彼によればウシャールは「素早く大胆な決断ができる人物ではなかった。激しく連合軍を追撃する代わりに、彼は時間を浪費しその戦力をイープルとメナンの作戦に不必要に使い、最後には後者の地で壊走する羽目になった」と批判している(p577)。
こうしたその後の展開の結果、オスコットの勝利が全体の戦況に何の変化ももたらさなかった、というのが4つ目の指摘だ。9月末にはフランス軍は以前の戦線まで押し戻され、次の勝利(ワッティニー)を経てライン方面での反撃が始まるまで、連合軍に攻め込まれた状況は続いた。フランドル戦線でフランス軍の優勢が確定するのは、ようやく翌1794年6月の
フルーリュスの戦いの後だ(p577)。
5つ目の影響は、何人かの指揮官たちが責任を取らされた点にある。具体的にはランドラン、エドゥーヴィユ、デュメニーという、オスコットの戦いに参加し損ねた面々だ。このうちランドランについては、まず13日の報告で彼がダンケルク正面宿営地の指揮権を奪われたことが書かれている。同時にこの報告書はウシャールの部下であり、キュスティーヌを尊敬していたヴェルノンの危険性についても触れており、この時期の軍人たちが置かれていた(政治的に)危うい状況を示すものとなっている。
ランドランがやらかしたのは、公安委員会からの使節として送られてきたデシャンを武装解除し、まるで犯罪者のように扱ったことが理由だ。この状態で路上で派遣議員と出会ったランドランは、デシャンをすぐ牢獄送りにすべきだと主張したそうで、ダンケルクにいた派遣議員たちはこの行為を極めて危険なものとみなした。唐突な師団長の解任がもたらす混乱や、後任をどうやって選ぶかという問題があってもなおランドランに指揮権を委ねるわけにいかないと考えた彼らは、ランドランを解任し、その事実を公安委員会に伝えた。さらに後任候補としてスーアンを含む数人の名を挙げている(p578-581)。
エドゥーヴィユの解任は23日だった。ウェルヴィクの戦闘で作戦計画を実行せず、敵後衛への突撃を拒否し、退却時には後衛を見捨て自ら先頭を切って退却したことなどが彼を解任した理由だと書かれている(p581-582)。デュメニーの解任についてはLéviの本には載っていないが、
彼は27日に解任されたようだ。
そして6つ目の影響がウシャールの逮捕である。9月26日の報告書に、公安委員会の命令で彼が逮捕されたことが記されている。後任はジュールダンだ(p582-583)。Léviは逮捕後にウシャールについて言われたことについて大半は掲載せず、ゲイ=ヴェルノンが残した「彼は正直で忠実で勇敢だったが、優柔不断で性格が悪かった」という言葉のみを掲載している。
そのうえで、かつての彼の上司であったキュスティーヌが1793年4月と5月に残した言葉が紹介されている。キュスティーヌは彼について「前衛部隊の指揮官としては素晴らしいが、軍を指揮したら失敗するのではないか」と思っており、彼に一軍の指揮を委ねるのは「その力を超えている」と記している。そして確かに、オスコットの戦いにおいて彼の行動で非難に値したのは、各分遣隊を誤って運用した点にあった(p583-584)。司令官としての能力不足が彼の最大の問題点だったのだろう。
一方でLéviは、この時期のフランス軍に特有の問題点、つまり派遣議員という仕組みの課題も指摘している。特にルヴァスールは明白にウシャールを敵視しており、彼の記述を読むと最初からウシャールを陥れるつもりだったのではないかと思われるほどだ。彼のような厄介な存在を背後に抱えたまま、優柔不断な将軍が指揮を取らされたことこそ、悲劇の源だったのかもしれない。
以上でLéviの本を使ったオスコットの戦いについての紹介は終了だ。この戦いもまたこの時代の会戦の中ではかなりマイナー。何しろ日本語wikipediaには項目自体が存在しない。これまで説明したように戦況を変えるような転機となった戦いではなく、指揮を執った面々も極めて知名度が低い。そして参加戦力は両軍合わせておそらく4万人に届かず、
革命戦争期においても大規模な戦いとは言い難い。きちんと調べようとするとフランス語文献まで探しにいかなければならないのも仕方ないだろう。
戦いそのものが18世紀的であることはこれまでも指摘したが、それに加えてやはり強く感じるのは革命期ならではのフランス軍の混乱ぶりだ。上層部では司令官の行動に対して派遣議員がかなり乱暴な介入をしており、下の方では兵たちがすぐに逃げ出したり、あるいは上官の言うことを聞かずに略奪に走ったりと、なかなかの無秩序ぶりを発揮している。この混沌とした状況の中から、後に全欧州を席巻する大陸軍が生まれてくるのだから、歴史というものは面白い。
そしてもう一つ、この戦いは実はまだまだ調べる余地が多数残されているように思える。特に連合軍側の動きについては分からないことがたくさん残っている状態で、そのあたりの史料を発掘すれば色々と目新しい知見が得られそうな気がする。ヘッセンやハノーファーの記録を探すのは難しいかもしれないが、英軍の記録などは誰かもっと調べてまとめてもらいたいものだ。
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