オスコットの戦い 13

 オスコット村から退却した連合軍は、一方はホウテムからブルスカンプ(北東)へ、他方はホーフスターデ(東)へと向かった。後衛部隊を務めたヘッセン軍は半時間ほど追撃を受けたが、秩序を維持しながら後退するのに成功。ハノーファー軍では後に有名になるシャルンホルスト大尉が後衛部隊の大砲とともにとどまり、追撃してくるフランス軍を相手に戦った(LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote), p551-552)。
 連合軍の損失は、そのほとんどが2500人という数字でまとまっている。オック将軍の伝記のみは士官90人(戦死10人、負傷45人、捕虜35人)、兵1980人(戦死180人、負傷900人、捕虜900人)という数字を残しているが、この数字は8日の損害のみを数えたものらしい。そして何より、より細かい部隊別の数字を足し合わせたものであるため、不正確であると疑う理由はない、というのがLéviの見解だ。
 確かに各部隊の損害については実に細かいデータが残っている(p552-553)。後衛戦に携わったヘッセン軍の大公連隊は士官の損害の大きさが目立つ。兵の損害で見るとハノーファーの擲弾兵、第5連隊、第6連隊あたりが大きかったようだ。一方、オーストリア軍の損害を見ると、兵の存在はともかく士官の損害が67人と妙に多い。3日分の損害だとハノーファー軍で士官95人(戦死15人、負傷52人、行方不明28人)、兵が2236人(戦死211人、負傷1092人、行方不明933人)に達したそうだ。ちなみに捕虜になった約900人はまずサント=メールへ、それからアブヴィユへと送られた。
 フランス側が推計した連合軍の損害のうち、実際の数字と近かったのはルヴァスールとデルブレルのもの(捕虜が600人から700人、死傷者が1200人から1500人)、あるいはヴァンダンムのもの(戦死600人、負傷1500人)だった。奪った大砲の数はおそらく8門。一方、軍旗の数については3つが奪われたという説が多いが、これには異論もあるという。
 ルヴァスールによればオスコットの戦場には有名な亡命貴族のブイエ侯がおり、フランス軍にこれまで決して踊ったことのないようなカルマニョールを踊らせてやる云々と発言していたそうだ。ブイエはヨーク公に呼ばれてこの戦場に来ていた、とルヴァスールは記しているが、Léviはこの戦場に亡命貴族のまとまった部隊が存在していた証拠はないとしている(p554-555)。
 連合軍の捕虜はまずサント=メールの建造中の武器庫の一室に入れられ、9月20日にはイエズス会の教会などに移された。その後、彼らはアブヴィユに移され、そして1799年9月3日には500人の英兵がダンケルクから英国に戻されたのだが、その大半はオスコットで捕虜になった者たちだったという。この記録が間違いないのなら、捕虜になった兵たちは実に6年間、フランスで暮らしていた計算になる(p555-556)。続いてLéviは連合軍から奪った物資が、その後どのように処理されたかについていくつかの事例を紹介している(p556-558)。
 オスコットから退却したヴァルモーデンは3時にブルスカンプからフールネの間で運河の背後に宿営地を置き(Topographic map of France (1836)参照)、ヨーク公から歩兵5個大隊の増援を受けた。彼はそこでフランス軍に脅かされることなく9月10日までとどまった。一方、攻囲軍は夕方4時に陣地を撤収し、午前2時にはローからフールネへと至る運河の背後の布陣した。10日、ヴァルモーデンはブルスカンプからフールネへ後退してそこにあった司令部と合流。12日にはヨーク公の軍はディクスムイデへ移動し、そこでイープル経由でメナンのオランダ軍と連絡を取った(p558-559)。
 Léviは9日付で書かれた公式報告を採録しているが、中身はA Collection of State Papersに載っているマレーの9日付報告(p44-45)の抜粋だ。連合軍の監視軍がオスコットに布陣したこと、7日のフランス軍の攻撃(ヴァンダンムによるもの)は撃退したが、8日の攻撃で指揮を執っていたヴァルモーデンは退却を強いられたことなどが書かれている。そこに載っている損害は死傷者と行方不明で1500人近く、他に大砲3門と200人から300人が捕虜になり、ハノーファー軍も同数の大砲を失ったとある(p559)。

 両軍主力がオスコットで戦っている間、フランス軍の最右翼にいたデュメニー師団は何をしていたのか。Léviは報告書をそのまま掲載している。まずは9月10日に主計官のシヴァルが派遣議員ベンタボールに宛てて記した報告だ。デュメニーの部隊はようやくポペリンヘを経てイープルへと前進し、9日にはそこを5時間にわたって砲撃したが、多数の敵が退路に迫っているとの情報を得てデュメニーはバイユールへ引き上げることを決めた。
 シヴァルは他に600頭の牛と300頭の羊を連れてきたため、しばらく補給には困らないといった内容の報告も送っている。加えて兵士たちが略奪に夢中になり、上官の言うことを聞かないといった苦言も呈している。このあたりは、他の情報も含めて当時のフランス軍の状況を知る1つのヒントになるのだろう(p560-561)。
 続いて11日付のデュメニー自身の報告書もある。デュメニーはウシャールの命令を熱心に達成しようとしており、また兵たちは無限の勇気を示したが、一方で略奪や規律の無視も目立ったとしている。続いて添付された覚書を見ると、彼はまず8日午前5時にようやくイープルへの移動を始めたそうだ。バイユールからまずロケレンに到着した彼は、そこでデュケノワ将軍を右側のディーケブックへ差し向けたうえで、自身はレニンヘルストを経てポペリンヘに向かった。敵はこの2拠点からすぐ撤退した。
 イープル西方にあるフラマーティンゲンは散兵とユサールの激しい攻撃によって奪取できた。フランス軍はイープルから4分の1リューのところまで接近したが、障害物の多い地形ゆえに散兵でなければ戦えなかったそうだ。デュメニーは町の周辺に展開していた敵を町まで追い払った。デュケノワも町に接近し、その左翼がデュメニーの右翼に接近してきたという。夜7時には2人の士官が町から100トワーズ以内まで接近して偵察を行った。
 月曜日(9日)朝、到着した攻城砲をデュメニーは3つの砲台に配置した。1つ目には16ポンド砲と12ポンド砲を、2つ目には8ポンド砲と軽砲を、そして3つ目には曲射砲が設置され、熱した砲丸が用意された。この日を通じて散兵は町への攻撃を続け、町からの砲撃に対抗してフランス軍も大砲を送り込んで戦った。町への砲撃を始める前に降伏を求める伝令が送られたが、敵はそれを拒絶した。デュメニーは砲撃を始めたが、敵に与えた損害については不明としている。
 敵の砲撃は味方にほとんど被害を与えなかったが、午後6時になって日が沈むと、砲丸を熱するための火が敵の目標になった。それでも5時間に及ぶ砲撃の間にフランス軍が受けた損害は砲兵1人と馬匹2頭だけだった。しかしデュメニーは、メナンから来た多くの敵増援が町に入り、またフランス軍の右翼に移動してきているのを見て、退却の準備をした。さらに左翼のエルファーディンヘ経由で縦隊が移動しているとの情報も届き、彼はもはや躊躇することなく退却を命じた。
 悪路と雨の中、午後8時から移動を始めた彼は、秩序を保ちながら退却を続けた。彼によれば追撃してくる敵に多くの損害を与えた一方、フランス軍の損害は戦死40人と負傷100人にとどまったという。軍は多くの牛も一緒に連れて戻った(p562-564)。
 イープルの防衛に当たったオーストリアのザリス大佐は、城壁に配置した大隊砲兵が町の外で戦う味方を支援したと書いている。また9日の戦闘では午後から町への砲撃が始まり、いくつかの建物に損害が出た。しかし連合軍の砲撃もあってこの攻撃は弱まり、夜にはフランス軍は撤収した。
 同時期、イープルの南方にあるメシーヌに対してもフランス軍が攻撃を行っていた。アルマンティエール、ニエップ、ウプリーヌらの守備隊を集めて形成したフランス軍部隊は北方へと前進。ヌーヴ=エグリーゼとウルファーヘムに哨戒線を敷いたうえで、敵の哨戒線をいくつか突破したうえで8日午前7時にはメシーヌ近くに到達した。ここでフランス軍は散兵戦と砲撃戦を展開。味方は7人が死傷し、敵には60人の損害を与えたが、夜にはいったん後退した。
 9日にも再びフランス軍は前進し、午前10時にはメシーヌの大砲のかなり近くまで接近した。連合軍は騎兵を出してきたがフランス騎兵に撃退され、フランス軍は午後4時までメシーヌへの攻撃を続けた。攻撃に当たった士官は兵士の熱意を褒め称えているが、一方で大砲の数が少なすぎたとも指摘している。結局のところ彼らの攻撃はメシーヌを奪うことはできなかったようで、最終的にデュメニーの退却を防ぐ効果は持っていなかった(p565-567)。
 Léviはデュメニーのこの2日間の戦いについて、自分の意見を一言も述べていない。ただこれらの戦闘が戦役全体にとってはほぼ何の意味もない戦いだったのはおそらく間違いない。デュメニーがもっと前から前進を始めていればどうなったのか、考えてみるのも面白いかもしれない。
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