オスコットの戦い 12

 オスコット村を奪取したフランス軍だが、散兵として狭い村の中に突入したフランス軍は各部隊が入り乱れた状態にあり、この混乱を整理するのに相当な時間を要したようだ(ゲイ=ヴェルノンによれば2時間以上)。ウシャールやルヴァスールも混乱からの回復に苦労したと述べており、ルクレール師団のラユールによれば、再編には夕方いっぱいを要したそうだ。ちなみに彼の部隊は連合軍のキュロット(半ズボン)を多数手に入れたという。
 ルクレールは村に突入した後にウシャールと会った。彼によればウシャールは勝利に有頂天になっていたようで、縦隊に秩序を取り戻させる必要があるとの彼の主張に対して耳を傾けなかったという。彼はルヴァスールに相談したが、この混乱を収めるのは容易ではなかった。どうやらこの当時のフランス軍は制服を部隊ごとに分けていなかったようで、この状況では追撃は問題外だったとルクレールは記している。どうにか兵を集めた時、彼は村の周囲に布陣するよう命令を受けた(LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote), p525-526)。
 その間にエドゥーヴィユのX旅団がオスコットに到着した。ゲイ=ヴェルノンによればこの部隊はほぼ半日にわたってベルグ方面に進んだ後で、朝から砲声が聞こえてきたオスコット方面に向かう決断をようやくしたという。一方、ルクレールによれば彼はレクスプードからの街道を経てオスコットを攻撃することで合意していたそうで、だとしたら彼はその合意を破ったことになる。どちらの言い分が正しいのかは不明だ(p527)。

 ここからウシャールの行動についての疑念点が取り上げられる。なぜ連合軍をきちんと追撃しなかったのか、という問題だ。彼はまずダンケルク攻囲軍の背後を直接叩くため、モエレの湿地を抜けてギヴェルドへ向けて進むよう提案された(Topographic map of France (1836)参照)。だが若い新兵たちを信用していなかった彼は、多くの兵ではなくヴァンダンム指揮下の歩兵1個大隊、騎兵2個大隊のみを追撃に差し向けた。
 Léviによれば、ウシャールに対する批判は3点ある。直接的な追撃の有無、大モエレを通った移動の可能性、そして9日を無為に過ごしたことだ。このうち1つ目については難しいところがあった。戦闘に参加していなかったエドゥーヴィユの部隊ですら、疲労のためフールネより手前のホウテムで追撃を止めたほどだったからだ。一方、ヴァンダンムの行軍をもっと大規模に行っていれば、攻囲軍にもっと大きな損害を与えられた可能性はある。9日の無為については、ダンケルクから来た士官が10日にルヴァスールを問い質したように、当時から問題視されていた(p527-528)。
 実はウシャールは当初、オスコットではなくレイセレ方面(つまり連合軍の退路に近いところ)を攻撃するつもりだった。この場合、史実より決定的なダメージを与えられた可能性がある一方、連合軍がずっと早く退却を決断し、結果として合流した攻囲軍と監視軍を相手に2度目の戦いを強いられていたかもしれない。いずれにせよこの場合、コロー旅団を押し進めるだけでなく、エドゥーヴィユをベルグ方面に向かわせる代わりにコロー旅団と合流させるべきだっただろう。
 またこの日、ダンケルクへと向かったランドラン師団の移動は結果的に無駄になったが、もし彼がダンケルクまで急いでたどり着こうと努力して実際に午後3時までに到着していれば、それからすぐ出撃することでヨーク公の退却を危険に晒すことができていたかもしれない。ウォルムートからダンケルクまでは約20キロあり、時速2.5キロの移動だったとしても午前7時に出発して午後3時に到着するのは不可能ではない。だがランドランがダンケルクに着いたのは午後5時で、もはや戦闘には参加できない状態だった。ルクレールはランドランに対し、自分と合流してオスコットを攻撃した方がいいと助言していたが、彼は従わなかった(p528-529)。
 ルヴァスールは当然ながら、ウシャールの消極的な態度を批判している。彼はオスコットを奪った直後から追撃を提言したが、ウシャールは手持ちの兵力では連合軍を止められないと主張した。午後5時に同じ主張をした時には、司令部はこれから勝利の報告をパリに送るところだと答えた。さらに翌朝にも彼はウシャールに追撃を求めたが、司令官は後方に8000人の英兵が残されたという情報があり、この部隊を捕らえるのが先だと主張したのだそうだ(p529-531)。
 ウシャール自身は戦闘後に歩兵1個大隊とユサールをホウテム村の先まで追撃に送り出したと証言している。またコローの前衛部隊とエドゥーヴィユの前衛部隊がホウテムまで追撃に当たったとも話している。時間は既に5時で、兵は疲れ切っており、フールネと大モエレの間まで前進したとしてもその時は夜になってしまう。2日前のレクスプードの経験から、ウシャールは追撃はせずオスコットにとどまり、翌朝から前進を行う方針を決めたという。またデュメニー師団がイープル正面から後退し、イープルの敵が軍の右側面を脅かす可能性があったことも、前進を控えた理由に挙げている。ベルトルミが10月3日に書いた手紙でも、レクスプードの経験から「夜戦は我々向きではない」と結論付けている(p531-532)。
 ゲイ=ヴェルノンは大モエレの沼地を抜けてヨーク公の攻囲軍に襲い掛かる策について言及している。それによればウシャールは実際に大モエレの沼地沿いに移動し、ヨーク公のいるところまでの道筋を発見した。ヨーク公が撤収を始めたという情報を得たフランス軍幕僚たちは、この道筋を通って騎兵を送り込むべきではないかと訴えた。しかし派遣議員がいなかったために作戦が決定できず、またウシャール自身がさらに情報を集めたものの、この道が使用可能かどうかは分からなかった。結局、ウシャールは数の少ない騎兵をまとめて投入するだけの決断ができず、ヴァンダンムに少数の部隊を与えてこの道を前進させることになったという(p532-533)。
 追撃に当たった部隊は、X旅団では第4ユサールと第9軽歩兵大隊だったという。ジュールダン師団からはヴォージュ第2大隊や第36連隊が敵の弾薬箱などを奪取している。大モエレを通ったヴァンダンムは真夜中にギヴェルド近くに到達し、オッシュと合流した。彼らはそのまま英軍の後衛部隊を襲撃して大量の荷物を奪った(ゲイ=ヴェルノン)。ヴァンダンム自身の証言によれば、彼らはギヴェルドとフールネの間にあるアディンケルケにたどり着いたという。他にも第2ユサールが追撃時に軍旗2本や400人の捕虜を奪ったそうだ(p533-535)。
 この後、Léviは負傷者への対応、また戦闘で活躍した個々の士官や兵士の話を紹介している(p535-544)。細かい話を知るうえでは興味深いものだが、ここでは省略しよう。
 その後に載っているのが、フランス側の損失についての記録だ。これまた正確なデータは限定的なようで、ゲイ=ヴェルノンは死傷者が1800人、ウシャールは負傷者700人、そしてルヴァスールとデルブレルは死者が少数で負傷者が400人から500人としている。最後の数字はおそらく正確ではない。
 部隊別の詳細な記録になると、いろいろな粒度のものがあるようだ。第67連隊の第2大隊は3日間で士官が4人負傷し、兵は戦死が10人、負傷が80人、行方不明が32人を数えた。p545-548に細かい一覧表が載っているほか、戦死した下士官パンシャールの軍歴についての史料(p549-550)も採録されている。ヴォージュ第2大隊は士官が2名負傷、兵は7人が戦死し、43人が負傷しており、これらの内訳はp550-551に掲載されている。
 それ以外に第22連隊の第2大隊では士官が1人負傷、兵士が10人戦死したが、兵士の負傷者数は不明。第24連隊の第2大隊は大したことのない損失で済んだという。パリ第9大隊では戦士が1人で負傷18人、憲兵隊は計117人が死傷した。第1歩兵の大尉であったプレドーはオスコットで右足に銃弾を受けたとされている(p544)。

 知っての通り、この戦いの後でウシャールは断頭台送りになっている。その理由とされたのが不十分な追撃だったのだが、今回紹介したフランス軍の追撃状況を見ると、確かにウシャールにも色々と問題点があったように読める。ただ、彼が慎重になった理由の1つが6日のレクスプードでの夜戦にあったのだとしたら、これは何とも皮肉な結果だ。ウシャールはそもそも6日にレクスプードまで進むつもりはなかったのに、派遣議員や兵士たちに押される格好でそこまで進み、連合軍の反撃を受けたからだ。
 加えてルヴァスールやデルブレルら派遣議員とウシャールの間に存在した根深い不信感も、彼にとっては問題だった。派遣議員と将軍たちが常に不和であったわけではないし、その意味でウシャールにも、もう少し彼ら権力者たちと仲良くやる努力は必要だったのだろう。それでも彼が不運で不幸であったのは確かだが。
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