オスコットの戦い 11

 オスコットの戦いは、正午になって戦況にほぼ決着がついた。おそらくはこの時間にベルグ方面から移動してきたルクレール師団が到着し、連合軍の防衛線が持ちこたえられなくなったためだ。LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)に載っている巻末地図の風車1、船着き場近くにあった連合軍中央右の堡塁に向け、パリ憲兵隊を先頭に彼らが出撃してきたのが、勝利の始まりだった。
 Léviによれば、この動きを見たヴァンダンムもモン=カッセル猟兵とともに前進を開始。中央右の堡塁はパリ憲兵隊によって陥落した。続いてルクレールとヴァンダンムの部隊は中央にある堡塁(風車2)へと攻撃を差し向け、ジュールダン師団と合わせて3方向から攻撃を行った。Léviはここでオスコットの戦いについて記したいくつかの絵画を紹介している。おそらくこの場面がオスコットの戦いでも最も印象的な場面として記録されているのだろう。
 この場面についてウシャールは、ルクレールが3000人の兵で行った攻撃によって戦いが我々の有利になったと述べ、全軍に銃剣で攻撃するよう命じたとしている。一方デルブレルの証言にはルクレールへの言及はなく、右翼のコロー旅団でまず突撃の合図があり、それに合わせて中央と左翼も突撃した結果、敵が逃げたとのみ記している。ゲイ=ヴェルノンは、ウシャールが第17騎兵連隊とともに前進した時に敵が退却を始めたことに気づいたとしている。そのうえで堡塁にはジュールダン師団のパ=ド=カレー国民擲弾兵大隊と、パリ憲兵隊、モン=カッセル猟兵が突入したと書いている(p513-515)。
 ルヴァスールによるとコロー旅団はジュールダン師団より多くの抵抗を受けたそうだ。Léviはコロー旅団があまり前進できず、ジュールダン師団に続いて部分的にしかオスコットに突入しなかったのだろうとしている。そのジュールダン師団は、ルヴァスールによると、右翼と左翼の動きを見て自らも堡塁を襲撃し、村に突入した。そして左翼のヴァンダンムは、シンプルに兵が勇気を奮って前進し、敵は退却を強いられたと記している(p515-516)。
 ゲイ=ヴェルノンはこの日のルクレールの行動について以下のように説明している。オスコットへ向かって移動した彼らはまずワルムで監視にあたっていたオーストリア軍分遣隊と遭遇し、これを排除した。彼らはそのまま船着き場前の堡塁へと出撃してきたが、先頭に立っていたオルヌ志願兵部隊は恐怖に捕らわれて崩壊した。しかしその後に続くパリ憲兵隊と、第24戦列歩兵連隊の1個大隊が突進し、氾濫原を胸まで水につかりながら堡塁に到着。そこを守る800人の連合軍は捕虜になるか戦死した。ルクレールはヴァンダンムの部隊と合流し、敵を中央の堡塁まで追いつめたという(p516-517)。
 ルクレール自身の話だと、彼は右翼縦隊(メゾン=ブランシュの部隊)と一緒にワルムへ移動し、それから運河沿いで「右翼[ママ、左翼の間違いだろう]縦隊」と合流した。彼はその後、オスコット運河に沿って行軍し、幅12ピエ(4メートル弱)の堤防上を進んだ。堤防上には様々な障害があり、彼らはそれを取り除きながら前進した。風車が見えてきた時、彼は反対側で戦っているウシャール指揮下のフランス軍の銃声を聞いた。彼はその音から味方が退却していると判断したそうだ。
 躊躇している時間はないと判断した彼は、小さな橋のところに大砲を2門配置し、激しい砲撃を命じた。背後からの攻撃によって連合軍を恐怖させる一方、味方を勇気づけるのが狙いだったという。続いて前進を命じられた憲兵隊は(胸までではなく)膝までつかる水のある塹壕を越えて敵を襲撃した。憲兵隊は400人のうち117人を失ったものの、塹壕は奪取した。後続部隊も多大な損害を出したが、連合軍の損失も多かった。
 背後に運河を抱えていたルクレールは引き続き突撃を命じた。300歩ほど前進したところで、運河の両岸にいた敵散兵を恐れた中央の大隊が逃げ出した。部隊を率いる士官の行動に問題があったそうで、この時期のフランス軍の質が窺える。ルクレールはさらにもう1門の8ポンド砲を前進させた。そして2つ目の縦隊の先頭に大砲を配置させたという(p517-519)この他にもいくつかの部隊の行動が記されているが、基本的に活躍した兵の紹介なのでここでは省略する。
 フランス軍の突入により、戦場はオスコット村の中に移動した。最終的にオスコットが奪われたのは、ウシャールによると午後3時半。ルヴァスールによるとこの戦闘で教会の壁が穴だらけになり、他にも多くの損害が出たという。後衛部隊となったハノーファーの兵は市場とその周辺で抵抗し、そのためルクレールの追撃はそこで終わった、とゲイ=ヴェルノンは記している。彼によれば戦闘は午後3時まで続き、その時点でようやくヴァルモーデンはオスコットから排除されたという(p520-521)。
 ルクレール自身の記録によれば、村の防衛線に近づいたところで敵からの射撃は倍加したという。ルクレールは砲撃で胸壁を破壊したが、その向こうに敵騎兵が並んでいるのを見て兵がビビった。そこでルクレールは手元にいた少数の騎兵を狭い道路上に並べ、トランペットを鳴らして突撃させた。背後から多くの騎兵が追随していると勘違いした連合軍騎兵はすぐ壊走し、村の中に突入したフランス軍は300人強のハノーファー兵を包囲して武装解除した(p521-522)。
 ルクレールの配下にいたラユールは、家々で抵抗する後衛部隊を追撃した。市街戦を勝ち抜いたのは指揮官たちの作戦よりも兵士たちの勇気が理由だと彼は主張。また攻撃は散兵の集団により行われたため、戦いが終わった時には全大隊が入り乱れた状態にあったという。一方、ルクレールは少数の兵士が行っていた略奪行為について言及している。これもまたこの当時のフランス軍の質を示す1つの実例なのだろう(p522-523)。

 ルクレール師団の行動のうち、最大の謎は彼らの進軍ルートだ。ルクレールははっきり「オスコット運河」の堤防に沿って移動してきたと書いている。つまり彼らはポン=ド=ラ=クロワからオスコットへ向けて移動したのだと思われる。そして、この運河の方面から連合軍の堡塁に攻撃を仕掛けることが奇襲になったとも記している。
 だが前にも書いた通り、ポン=ド=ラ=クロワからオスコットへ至るオスコット運河沿いに展開していた連合軍左翼には、ディーペンブロイク旅団(歩兵7個大隊と大砲14門)が配置されていたはずだ。もしかしたら彼らの一部、あるいはその大半が、ヴァンダンムとの戦闘に巻き込まれていた可能性はある。だがそれでもコルム運河からオスコット運河沿いに移動してきたフランス軍に対して、ほとんど何の対処もしなかったのだとしたら、それは明らかにおかしい。特にルクレール師団が通ってきたのが狭い堤防道であったことまで踏まえるなら、フランス軍の接近を容易に許したのは論外と言える。
 連合軍側の記録によると、ルクレール師団の接近に対してはヴェデマイアー中尉率いる騎兵が右翼方面に派出され、歩兵に対して突撃し大砲2門を奪ったという話がある。だがその数はたった40騎。それ以外にこの方面でフランス軍と戦ったという記録についてLéviは紹介していない。
 むしろ連合軍は、退路が通じている左翼への攻撃を恐れていた様子がある。ルクレールの攻撃だけでなく、コロー旅団による左翼への圧力も、ヴァルモーデンが退却を命じる理由だったそうだ。この方面ではエトワールとクラショワールの交差点間で騎兵戦が行われたとの話や、古い町の門を巡る争いがあったと伝えられている。
 だが、ここでも大雑把な話以外は不明。左翼のハンマーシュタイン旅団が具体的にどう戦ったのかはよく分からない。あと、後方に配備されていた予備部隊が、いつ、どこへ、どのように投入されたのかも謎だ。もし本当に連合軍左翼方面で騎兵戦があったのなら、その騎兵は予備から送り出されたはず。同じようにルクレールが遭遇した騎兵も当初は後方に控えていたと思われるが、こうした部隊がどのような目的でどう動いたのか、Léviの本を読んでも情報が見当たらない。
 いずれにせよ連合軍は2つの縦隊を組み、退却を始めた。退路を確保するために後衛部隊がオスコットと、特にキレム街道からの入り口に配置された。彼らは味方が退却する時間を稼ぎ、それから後退したが、多くの損害を出した。中にはローテ大尉の部隊のようにフランス軍を突破して退路を切り開いた例もあったが、多くの兵たちは逃げきれずに捕虜となったそうだ(p523-525)。
 なお、この戦いに巻き込まれた民間人の子孫が書き残した文章も採録されている。筆者の曾祖母が鶏小屋に逃げ込んだところ、多数の兵たちが庭を通ってベルギー方面へ逃げていくのを目撃したそうだ。あっけにとられた彼女が1人の兵士に何が起きたのか聞いたところ、彼は答えた。「それがね、おふくろさん、地面を覆うほど多くのフランス人がいたもんでね」
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