オスコットの戦い 10

 LéviのLa défense nationale dans le Nord en 1793 (Hondschoote)は9月8日の戦いをいくつかのフェーズに分けている。まずは午前7時から9時の「方針決定」の段階であり、これは前回紹介した。続いて午前9時から正午までの「準備」段階があり、そして正午から午後2時までの「勝利」段階がある。実のところ正午には連合軍は退却を決定しており、それ以降は後衛戦闘でしかなかった。その意味では短い戦いだったと言える。
 小競り合い自体は午前9時前から左翼のヴァンダンム旅団で始まっていた。この方面で最初の射撃が行われたのは午前6時から7時頃。戦線全体で戦闘が本格化してきたのは、ジュールダン師団が戦闘に加わった午前8時過ぎから。続いてコロー旅団は午前9時頃には戦場に到着し、戦いに参加した。この時点でフランス軍側の戦力はおよそ1万8000人ほどに達していたと見られる。
 ウシャールによると、コロー師団到着前に戦闘が始まったのは彼の意図には反していたが、前にも述べた通りオスコットから100トワーズほどのところにある垣根がそのまま残っていたため、フランス軍はその地までは敵から隠れながら接近することができた。コロー旅団の到着は戦闘が始まってから2時間後で、彼はコローのところに駆け付けると、部隊を(キレム?)街道右側に展開し、騎兵を最右翼に持っていくよう命令した(p498-499)。
 命令を受けたコローは右翼のレイセレ方面に騎兵を派出し、連合軍の中央左翼との交戦に入った。ウシャールは報告の中で連合軍の堡塁を2回奪取し、いずれも取り返されたと書いているが、これはコロー旅団の正面にあった左翼の堡塁(巻末地図の風車3)だそうだ。またドゥーの志願兵部隊に攻撃させようとした時にコローが負傷したという話も記されている(p501)。ルヴァスールはコローの負傷後に、ウシャールが命令を下さないまま5時間もこの旅団を放置していると書いているようだが、これが事実かどうかは不明だ。
 一方、左翼のヴァンダンムはこの戦いについてはごく短い文章しか残していない。彼がジュールダン師団より先に攻撃を始めていたことは言及済みだが、その戦いについて彼は「双方の射撃は激しく、6時間以上続いた」など、ざっくりとした話しか残していない。彼の旅団に属していた第2ユサール連隊は、兵の逃亡を妨げるため、騎兵が後方の街道上に展開したと書いている(p500-501)。ウシャールも似たような記録を残している(p500)。
 そして中央のジュールダン師団の戦闘について、Léviは以下のような経緯を述べている。彼らが敵陣から200メートル付近まで接近したところから、戦闘が本格化した。ジュールダンはまず最前線に大砲10門を先行させ、連合軍中央の堡塁にある12門の大砲に対抗させた。砲兵は聖ドナ教会にも配置されたが、最も効果的だったのは五叉路の前面に送り出したもので、その砲撃は堡塁近くの建造物を壊し、その木材を堡塁内の兵士に降り注がせたという。それでも地形的には連合軍の方が有利であったようだ。
 事前に砲撃を浴びせたうえで、フランス軍の歩兵が前進を図った。コヒェンハウゼンが塹壕を越えてヘッセン歩兵で反撃に出たため、フランス軍は押し戻されたが、コヒェンハウゼンが負傷したために反撃は頓挫。ヘッセン歩兵は塹壕の背後に下がった。ジュールダンはこの機を捉えて銃剣突撃で堡塁を奪おうとしたが、今度は彼が負傷。同時に旅団長だったメンゴーも負傷してしまい、ジュールダンの軍勢は後退を強いられた(この後退はベルグ方面から接近していたルクレールも把握していたようだ)。
 事態が危機的になったこの瞬間を支えたのはウシャールだった、とLéviは記している。彼は第17騎兵連隊の先頭に立って前進した。その行為はおそらく効果的で、ジュールダン師団は崩壊の危機を食い止めた(p502-503)。この戦いにおけるウシャールに対しては、派遣議員をはじめとして批判者が多いのだが、それでもこの局面の彼は評価すべきだ、という見解だろう。

 この時間帯についてウシャールが残した記録はあまり多くない。上にも述べた通り、堡塁を2回奪取して奪い返されたこと、戦闘中にジュールダン、コロー、メンゴーといった将軍たちが負傷したこと、一方で多くの兵が溝に隠れて後方に逃げ出そうとしたため、これらの兵を止めて戦場に戻すために騎兵をすべての街道上に展開しなければならなかったことなどに触れている程度だ(p499-500)。
 Léviの記述がほとんどゲイ=ヴェルノンに拠っているのは、掲載されている彼の証言を読めば分かる。コヒェンハウゼンの反撃に続いて歩兵戦闘が2時間ほど続いたこと、ジュールダンとメンゴーの負傷後にジュールダン師団がバラバラになり、以後はほぼ散兵として戦うようになったこと、ウシャールの率いた第17騎兵連隊の数が500騎超だったこと、この騎兵の前進を見て2000人の歩兵が後に続いたことなど追加的な情報もあるが、全体の流れは上で紹介した通りだ。
 さらにゲイ=ヴェルノンは、ウシャールが2人の派遣議員に対し、それぞれジュールダン師団とコロー旅団の先頭に立つよう要請したと記している。彼らはこの要請に応じ、それぞれ兵士を勇敢に鼓舞したと記している(p503-505)。ただしこの部分は後に紹介する派遣議員の証言とはずれており、どこまで信用できるかは分からない。
 デルブレルの証言は戦闘の経緯というよりウシャールに対する批判が中心となっている。例えば彼はウシャールが縦隊を前進させ、敵の射程距離内に置いたまま2時間放置したと書いているのだが、ゲイ=ヴェルノンが述べているようなフランス軍砲兵による事前砲撃については言及していない。また最初の攻撃が撃退された後にウシャールが退却を示唆し、それにデルブレルが反対したという話も出てくるし、あるいはウシャールがルヴァスールとともに右翼のコロー旅団の方へ移動したとも書かれているのだが、このあたりもどこから出てきた話なのか不明だ。
 デルブレルはジュールダンとともに右翼から来るはずの攻撃の合図を待っていたが、いつまでも合図がないうちにフランス軍はまた退却を始めたという。デルブレルはジュールダンに対し、自分の判断で攻撃に出るよう命じたうえで、残った兵を集めに行ったが、戻ってくるとジュールダンは負傷して後退を強いられていた。攻撃と撃退の流れはゲイ=ヴェルノンの話と大きく一致しているが、細かい内容はほとんど一致していないという凄い文章だ(p505-509)。
 ルヴァスールの記述はそのデルブレルの記述とも矛盾している。デルブレルの言い分を信じるなら彼とウシャールはこの時にコロー旅団のところにいたはずなのに、なぜかルヴァスールはジュールダン師団にとどまっており、負傷したジュールダンと会話したうえで、デルブレルと相談して彼にコロー旅団へ向かうよう要請している。そのうえでルヴァスールはジュールダン師団の先頭に立ち、乗馬を殺されながらも兵たちを鼓舞したのだそうだ(p509-510)。ゲイ=ヴェルノンは彼らがそれぞれジュールダン師団とコロー旅団の先頭に立ったと言っているが、どちらがどちらの先頭に立ったのかはさっぱり分からない。
 一方、連合軍の記録によれば、フランス軍はそもそも散兵として、地形を利用しながら接近してきたことになっている。特に左翼を脅かされたと感じた連合軍は、コヒェンハウゼンが反撃に出たが、途中で地形を利用して抵抗するフランス軍に足を止められた。いくつかの部隊が後退を強いられ、側面を露出した部隊の中にはフランス騎兵の襲撃を受けたところもあったという。実際、オーストリアのフォン=ヴォルフ大佐は100人の兵とともにフランス軍の捕虜になった。大砲を捨てて退却した部隊もあった。
 この局面でコヒェンハウゼンが砲撃によって両足を砕かれた。連合軍は再編した部隊を投入して反撃を行ったが、ヨーク公の副官であるハノーファーのフォン=マーシャル大尉がその過程で戦死したりしている。連合軍側の記録によれば、この段階でコロー旅団が到着し、連合軍の左翼を脅かし始めたという。これが事実なら、ジュールダン師団の最初の攻撃と、それに対するコヒェンハウゼンの反撃は、午前9時より前の段階で行われたことになるが、いささか時間が足りない気がする。
 フランス軍の攻撃で中央の堡塁(巻末地図の風車2)近くに展開していた擲弾兵の数は極端に減らされていた。連合軍はマレット少佐が銃剣突撃を率いた。この攻撃には連合軍の全戦線が追随し、フランス軍は大きく後退したという。おそらくこれがジュールダンの負傷したタイミングだろう。だがフランス軍は新たな兵を投入して再び攻勢に転じた。
 連合軍側によれば、こうした戦いは4時間にわたって展開されたそうだ(p510-513)。ジュールダンの本格的な攻撃が始まったのが午前8時だとして、また正午には連合軍が退却を決断したのだとすれば、4時間という数字は適切だろう。戦闘の経緯も主にゲイ=ヴェルノンの証言に基づいてLéviがまとめた流れと、完全ではないが大体一致している。というか、一致するようにLéviが情報を整理したのだと思われる。派遣議員の証言など矛盾する内容も多々あるが、大雑把にはこうした流れで戦いは進んだと考えてよさそうだ。
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